空白の6ヶ月 ~記憶の分断~
2021年5月25日 流星の彼方(回想録)
一時期というか今も、高校1年が終わった時~2年の10月(セカンドバースデー)の間というのが記憶が抜け落ちているというか、完全な空白域になっていて悩んでいたことがあったから今回はそんな話。
もう高2の終わりくらいから薄々思っていたのだけど10月以降のことの影響が大きかったのかいじめが終わった3月~10月の部分があまり思い出せないなと思っていた。それがさらに気になってきたのは大学に入ってから。なにしろ高校3年間のうちの半年だから1/6もの期間だったから。
この頃の自分の記憶の形はというと意識的には高1のいじめの記憶も積極的には思い出さないようにしていたから
生まれた時~中学校・高1全体・(空白の高2の10月まで)・高2の10月以降~
という形に分断されていたな。空白の期間は日記も無いし写真とか見れば確かにどこに出かけたとかはわかるけどどんなこと考えていたとか、好きなことや物の記憶があまりないんだよね。だから、中学とかのことも思い出す時も分断された箇所があるからなにか違和感があるような感じがして。
わかることと言えばNゲージは車籍を昔から残しているからGMの73系キット組んで、KATOの165系の低屋根セットを買ったとかは記録が残っているのとあとは写真くらい。思い出せることもあまりないんだよね。大学生のうちにも少しずつ思い出すことはあったし一つに統合しようとしても記憶は分断されたまま
結局、今も完全に思い出すことはできないままである。といってももうこれだけ歳を取ったから他にも忘れていることとか日記を見ないと思い出せないこともいっぱいあるくらいだから気にならないようになっただけのこと。さらに分断されている構造も2003~2005年にかけてカウンセリングを受けていた時に解消されてようやく一つの記憶の流れになった。
そんな今日の1枚は1995年8月に金沢八景で2000形を撮影したもの。真夏の昼下がりに思いったらということで八景にいって撮影してきた時のワンショット。大学時代にこの写真を見た時は安心したな。間違いなく自分らしさを失っていなかった。ボロボロで追い詰められた時に感情が麻痺してきたのも自分らしさの大事な部分を守ろうとした証だったと思えてきたから。
もう高2の終わりくらいから薄々思っていたのだけど10月以降のことの影響が大きかったのかいじめが終わった3月~10月の部分があまり思い出せないなと思っていた。それがさらに気になってきたのは大学に入ってから。なにしろ高校3年間のうちの半年だから1/6もの期間だったから。
この頃の自分の記憶の形はというと意識的には高1のいじめの記憶も積極的には思い出さないようにしていたから
生まれた時~中学校・高1全体・(空白の高2の10月まで)・高2の10月以降~
という形に分断されていたな。空白の期間は日記も無いし写真とか見れば確かにどこに出かけたとかはわかるけどどんなこと考えていたとか、好きなことや物の記憶があまりないんだよね。だから、中学とかのことも思い出す時も分断された箇所があるからなにか違和感があるような感じがして。
わかることと言えばNゲージは車籍を昔から残しているからGMの73系キット組んで、KATOの165系の低屋根セットを買ったとかは記録が残っているのとあとは写真くらい。思い出せることもあまりないんだよね。大学生のうちにも少しずつ思い出すことはあったし一つに統合しようとしても記憶は分断されたまま
結局、今も完全に思い出すことはできないままである。といってももうこれだけ歳を取ったから他にも忘れていることとか日記を見ないと思い出せないこともいっぱいあるくらいだから気にならないようになっただけのこと。さらに分断されている構造も2003~2005年にかけてカウンセリングを受けていた時に解消されてようやく一つの記憶の流れになった。
そんな今日の1枚は1995年8月に金沢八景で2000形を撮影したもの。真夏の昼下がりに思いったらということで八景にいって撮影してきた時のワンショット。大学時代にこの写真を見た時は安心したな。間違いなく自分らしさを失っていなかった。ボロボロで追い詰められた時に感情が麻痺してきたのも自分らしさの大事な部分を守ろうとした証だったと思えてきたから。
日記を書き続ける訳 ~自分を見失った教訓から~
2021年5月24日 流星の彼方(回想録)流星が日記をつけるようになってからもう四半世紀以上が経ったけど、今回は日記を書き続けている訳をの話です。
大本は高校2年の11月、初めてのセカンドバースデーから1ヶ月くらい経った後ですセカンドバースデーのことは
https://25444.diarynote.jp/202105230108297931/
を参照してください。
それで、やっぱりその当時の自分が思ったことはいじめが原因だったにしても自分を見失っていたわけだし、もうこんなこと二度と起きてほしくないしもしそうなった時に自分を取り戻すヒントになると思って書き始めたのが最初。本当にとりとめのないこととか日常的なこともあったけど、なにより自分も感じたことや考えたことを書くようにしていた。それが最初の目的。
高3の受験シーズンになるとさらに環境も悪くなるし辛い気持ちにもなっていく。いつも寝る前に書いていたから調子の悪いとか、不安定な日は辛い気分でも自分を励ますようなことを書いて自分を応援していた。
大学に入ってからは出来事とかでたまに気持ち的な事書いたりは変わらないけど今度はその日の精神的なコンディションを書く部分が多かったな。
そして、就職して2年目の夏からここに書くようになったけどその頃は何かトピックとかネタで使えることはここに、それ以外は自分だけの日記に書いていたり中にはブログの記事をそのまま自分用の日記に貼り付けていたり。
自分だけの日記をやめてここだけにして今に至ると。今は一時期更新が遅れまくっていたから気持ちの面とかなかったのは反省するべきことだし結構記述漏れとかあったかも。ただ、今はネタ半分に要所要所は書いてあるから何か思い出すための鍵という役目もあります。
ちなみに、今は1ヶ月以内の遅れにとどめています。さすがに何か事件とかにたいして書きたい時に順番飛ばしが広範囲になるのも避けたい自分も気持ちもまた書きたいから。ただプライバシーとかの兼ね合いから最短でも2週間遅れを目指しているけど、場合によってはそれももっと短縮させてもいいのかも?
大本は高校2年の11月、初めてのセカンドバースデーから1ヶ月くらい経った後ですセカンドバースデーのことは
https://25444.diarynote.jp/202105230108297931/
を参照してください。
それで、やっぱりその当時の自分が思ったことはいじめが原因だったにしても自分を見失っていたわけだし、もうこんなこと二度と起きてほしくないしもしそうなった時に自分を取り戻すヒントになると思って書き始めたのが最初。本当にとりとめのないこととか日常的なこともあったけど、なにより自分も感じたことや考えたことを書くようにしていた。それが最初の目的。
高3の受験シーズンになるとさらに環境も悪くなるし辛い気持ちにもなっていく。いつも寝る前に書いていたから調子の悪いとか、不安定な日は辛い気分でも自分を励ますようなことを書いて自分を応援していた。
大学に入ってからは出来事とかでたまに気持ち的な事書いたりは変わらないけど今度はその日の精神的なコンディションを書く部分が多かったな。
そして、就職して2年目の夏からここに書くようになったけどその頃は何かトピックとかネタで使えることはここに、それ以外は自分だけの日記に書いていたり中にはブログの記事をそのまま自分用の日記に貼り付けていたり。
自分だけの日記をやめてここだけにして今に至ると。今は一時期更新が遅れまくっていたから気持ちの面とかなかったのは反省するべきことだし結構記述漏れとかあったかも。ただ、今はネタ半分に要所要所は書いてあるから何か思い出すための鍵という役目もあります。
ちなみに、今は1ヶ月以内の遅れにとどめています。さすがに何か事件とかにたいして書きたい時に順番飛ばしが広範囲になるのも避けたい自分も気持ちもまた書きたいから。ただプライバシーとかの兼ね合いから最短でも2週間遅れを目指しているけど、場合によってはそれももっと短縮させてもいいのかも?
この前からちょっとずつ始めてきたGWに横須賀から持ってきた手書き時代の日記も最後の1冊の電子化が終わり。これにて当初の目的通り処分を完了。
電子化はまずは1冊とってうまくできそうか確かめ、手順も多少変えたりしてきたけど思った以上にくっきりとページを再現されていたのは助かった。それで問題ないと確認したら順番にという流れ。
今回は、パスワード付きPDFにしたから簡単には見られる心配も無い。これで安心して保管できるな。あとはバックアップはクラウドにでも上げるか。
電子化はまずは1冊とってうまくできそうか確かめ、手順も多少変えたりしてきたけど思った以上にくっきりとページを再現されていたのは助かった。それで問題ないと確認したら順番にという流れ。
今回は、パスワード付きPDFにしたから簡単には見られる心配も無い。これで安心して保管できるな。あとはバックアップはクラウドにでも上げるか。
先週に引き続いてトミーテックの方向へお墓参り。というのも、先週行った話をしていたら行けなかったメンバーからの声が大きくてそれならということに。
ということで、通り道を兼ねていたので拾ってもらって出発。まぁ先週と同じく新4号バイパスを基本に往復下道だけど下道でいくほど時間がかからないとのいうのがまた何とも不可思議というよりも、新4号バイパス恐るべし。
お墓についてこの前は、お線香に火をつけるのに苦戦したからと今回は料理に使っているガスバーナーを持参したらこれがまたいい感じで簡単に火が着いて大助かり。
ただ、ちょっと今回難があったのは5月のブチギレたい相手第2位が確定するひと悶着はあった(1位は旭川の某中学校の元を含むゴミクズ教員トリオしかいねーわ)上に久々に毒舌がヒートアップしたわ。
そんなこともあったけど、また昼とも夜とも着かない食事をしてちょっと遅くなってまた家まで送って貰ってから前にもやった葛飾方向へのメンバーをうちのアクセラで送っていって今日は終了。お墓参りといいつつ道中は盛り上がったしまた旅行とか行きたいな。
ということで、通り道を兼ねていたので拾ってもらって出発。まぁ先週と同じく新4号バイパスを基本に往復下道だけど下道でいくほど時間がかからないとのいうのがまた何とも不可思議というよりも、新4号バイパス恐るべし。
お墓についてこの前は、お線香に火をつけるのに苦戦したからと今回は料理に使っているガスバーナーを持参したらこれがまたいい感じで簡単に火が着いて大助かり。
ただ、ちょっと今回難があったのは5月のブチギレたい相手第2位が確定するひと悶着はあった(1位は旭川の某中学校の元を含むゴミクズ教員トリオしかいねーわ)上に久々に毒舌がヒートアップしたわ。
そんなこともあったけど、また昼とも夜とも着かない食事をしてちょっと遅くなってまた家まで送って貰ってから前にもやった葛飾方向へのメンバーをうちのアクセラで送っていって今日は終了。お墓参りといいつつ道中は盛り上がったしまた旅行とか行きたいな。
金曜日は遅番しかも、前はその週の状況から出勤時間を決めていたけど早めにすると余裕が無いことも少なくないからだったら、最後は自分のことをやって時間調整して帰ればいいとばかりに時間を固定。
そして、いつもの時間に会社を出ていざ帰り道。その前に、今日は新荒川大橋もやけに空いている。もうこうなったらとばかりに122号をひたすら走らせたいという衝動に駆られて一路岩槻へ。
もう先週の栃木への往復で新4号バイパスなんて日本のアウトバーンをまとまった距離を走ったから今度は自分の運転でとなるのは当然のことで大門とかで多少もたついただけでしかも高速道路とはまた違う何とも言えない走り。もちろんギアは6速でアクセルはクルーズ任せ。そして高速でもないのにBGMはまるごと1曲分かかっている間、一度も止まらないどころかブレーキも踏まないで走れるあたりがまた違う。
往復1時間弱。最近は遠くにも行かないし、足立方向に行くこともめっきりなくなってやっぱり走り足りないのかな?というよりドライブ病?
そして、いつもの時間に会社を出ていざ帰り道。その前に、今日は新荒川大橋もやけに空いている。もうこうなったらとばかりに122号をひたすら走らせたいという衝動に駆られて一路岩槻へ。
もう先週の栃木への往復で新4号バイパスなんて日本のアウトバーンをまとまった距離を走ったから今度は自分の運転でとなるのは当然のことで大門とかで多少もたついただけでしかも高速道路とはまた違う何とも言えない走り。もちろんギアは6速でアクセルはクルーズ任せ。そして高速でもないのにBGMはまるごと1曲分かかっている間、一度も止まらないどころかブレーキも踏まないで走れるあたりがまた違う。
往復1時間弱。最近は遠くにも行かないし、足立方向に行くこともめっきりなくなってやっぱり走り足りないのかな?というよりドライブ病?
長い放課後の背景を求めて
2021年5月19日 流星の彼方(回想録)今日はテレワーク♪。まぁあれこれやっていたけどやっぱりBGM聴き放題で仕事できるのは気分が断然違う。
今回は時間もあるしということでもう何十年ぶり?鈴木彩子の「19歳の鼓動」を全曲通しでかけていた時に、ふと思い出したのがセカンドバースデー=「長い放課後」のこと。ネットでは93年に起きた、山形マット死事件を連想させたとかこの事件がモデルになっていると書いているけどそれは違う。当時の日記の書き込みで、彩子さん自身が、いじめが原因で自殺した少女がモデルと答えていると書いてあるから。実は、昔も実際どの事件がモデルになっているか調べたけど結論がでなかった。まずは彩子さん自身のことかな?と思ったけどこの動画
https://www.youtube.com/watch?v=U01qvdHMdIA
で加害者と被害者のどちらの立場にも立ったと答えているしむしろ自分の誤った行いに傷いていたとコメントしている。それで出身地の宮城県でも調べたけど年代的にあてはまる事件も無いし。ということは本人は関わっていない。
さらにアルバム「愛があるなら」の発売日が95年6月だからそれ以前という前提条件と2番の歌詞の、「沈み去る夕陽を 追いかけ走った あの日の砂浜は取り戻せやしないのか」 という部分で海沿いの地域での事件だろうと考えたけど正直見当たらないんだよね。当時も今もここでわからずじまい。
ただ、アルバム19歳の鼓動の「ひとりぼっちの意味」
https://www.youtube.com/watch?v=XniU9eKs5VE&t=344s
で曲を提供した上田知華さんがこの曲のモデルになったのはいじめによって線路へ飛び込み自殺をした中学生の少女をモデルにしていると言っていてこれはほぼわかった。ひとりぼっちの意味と長い放課後は同じ人がモデルになっていて視点を変えたもの?と自分は思ったけど正解はどうなのかな?
ただいずれにしても背景にはいじめにより自ら命を絶ってしまった人がいることは確かだし、大人たちの保身のためによる隠蔽があるのは今も同じ。この2つの曲が放つメッセージが過去形になるのはいつの事だろう。
今回は時間もあるしということでもう何十年ぶり?鈴木彩子の「19歳の鼓動」を全曲通しでかけていた時に、ふと思い出したのがセカンドバースデー=「長い放課後」のこと。ネットでは93年に起きた、山形マット死事件を連想させたとかこの事件がモデルになっていると書いているけどそれは違う。当時の日記の書き込みで、彩子さん自身が、いじめが原因で自殺した少女がモデルと答えていると書いてあるから。実は、昔も実際どの事件がモデルになっているか調べたけど結論がでなかった。まずは彩子さん自身のことかな?と思ったけどこの動画
https://www.youtube.com/watch?v=U01qvdHMdIA
で加害者と被害者のどちらの立場にも立ったと答えているしむしろ自分の誤った行いに傷いていたとコメントしている。それで出身地の宮城県でも調べたけど年代的にあてはまる事件も無いし。ということは本人は関わっていない。
さらにアルバム「愛があるなら」の発売日が95年6月だからそれ以前という前提条件と2番の歌詞の、「沈み去る夕陽を 追いかけ走った あの日の砂浜は取り戻せやしないのか」 という部分で海沿いの地域での事件だろうと考えたけど正直見当たらないんだよね。当時も今もここでわからずじまい。
ただ、アルバム19歳の鼓動の「ひとりぼっちの意味」
https://www.youtube.com/watch?v=XniU9eKs5VE&t=344s
で曲を提供した上田知華さんがこの曲のモデルになったのはいじめによって線路へ飛び込み自殺をした中学生の少女をモデルにしていると言っていてこれはほぼわかった。ひとりぼっちの意味と長い放課後は同じ人がモデルになっていて視点を変えたもの?と自分は思ったけど正解はどうなのかな?
ただいずれにしても背景にはいじめにより自ら命を絶ってしまった人がいることは確かだし、大人たちの保身のためによる隠蔽があるのは今も同じ。この2つの曲が放つメッセージが過去形になるのはいつの事だろう。
虹をみながらクリニック
2021年5月17日 趣味
今日は毎月恒例のクリニックの日。それにして雨が降ったりやんだりで変な天気だなと思っていたら、空にはくっきりと見える虹が。気がついた人はみんなスマホを構えるほど。
今日のクリニックは全開からの続きで、結局不安定になった理由(4月21日の記事の通りなんですがね)とかいじめが根本の原因であるとか前のクリニックでそれでカウンセリングを受けていたこととか。それと、前にもこういう不安定になって過去のことを思い返したりしてこれが落ち着くと自分が成長できると話したら「心の棚卸しなんですね」と言われたりも。
あとは話していて2017年の腎臓の病気が見つかって以来、いかに腎臓を長く持たせるかに始まって移植に向けてうまく軟着陸させられるか。そしてそれが1年経って定着した今は腎臓の病気と向かい合うというベクトルが無くなったのも大きかったかも。
そんなこんなを話して頓服の安定剤の数をさらに増やして終わり。まぁクリニックに通い始める理由とか考えるとあれこれあるけどそれは別の日の枠でも使って書くとするか。
今日のクリニックは全開からの続きで、結局不安定になった理由(4月21日の記事の通りなんですがね)とかいじめが根本の原因であるとか前のクリニックでそれでカウンセリングを受けていたこととか。それと、前にもこういう不安定になって過去のことを思い返したりしてこれが落ち着くと自分が成長できると話したら「心の棚卸しなんですね」と言われたりも。
あとは話していて2017年の腎臓の病気が見つかって以来、いかに腎臓を長く持たせるかに始まって移植に向けてうまく軟着陸させられるか。そしてそれが1年経って定着した今は腎臓の病気と向かい合うというベクトルが無くなったのも大きかったかも。
そんなこんなを話して頓服の安定剤の数をさらに増やして終わり。まぁクリニックに通い始める理由とか考えるとあれこれあるけどそれは別の日の枠でも使って書くとするか。
数日前にうちの模型クラブに出入りしている方が亡くなられたという知らせを受けて今日は少数人数が代表でお線香を上げに。もうすでに葬儀はごく一部の親族だけで行われたそうなのであくまでお線香を上げに行くだけ。
それで待ち合わせは新越谷。ということでまた草加までバスで出て東武。今日の写真はその時に撮ったメトロの13000系。東武はまだ時間に余裕があるからと各駅停車に乗ったらなんと来たのがTHライナー用の70090系。やっぱり座り心地もいいし隣の席との間に肘掛けもあるから密着することもない。ただ気になったのは最近の電車と違い足元に転換装置とヒーターがあって足を前に出さざる得ないこと。これはこういう電車故に仕方ないか。
それで新越谷で集合したら車で目指すはトミーテックがあるあの方面。そうなると高速不要とばかりに新4号バイパスを北上。やっぱりこうなるか。
それでいざ現地についてお線香を上げて親族のかたとしばしいろいろなお話をしてそれから、諸事情等々ですでに納骨も済ませているというからお墓を案内されてさっそくお墓参り。それにしても突然亡くなられてビックリしたな。最近はあまり会ってなかったのが心残り。
お墓参りが終わってからは、近くで食事(お昼とも夜ともつかない微妙な時間だったな)してまた来た道を戻るようにして帰りは送ってもらって帰宅。
今回はまさかこんな週末になるとは思わなかったな。それとここだけの話、実は本来ならこの日はグランシップ鉄道模型フェスタ2021に行くつもりではいたのだが、緊急事態宣言・まん延防止等重点措置が出ているエリアからの来場はご遠慮くださいということで断念したという経緯があって開いていてよかった。というよりもコロナの自粛等々で横須賀行きもくらいしか休日は出かけないしそれこそ簡単にずらせるか。
それで待ち合わせは新越谷。ということでまた草加までバスで出て東武。今日の写真はその時に撮ったメトロの13000系。東武はまだ時間に余裕があるからと各駅停車に乗ったらなんと来たのがTHライナー用の70090系。やっぱり座り心地もいいし隣の席との間に肘掛けもあるから密着することもない。ただ気になったのは最近の電車と違い足元に転換装置とヒーターがあって足を前に出さざる得ないこと。これはこういう電車故に仕方ないか。
それで新越谷で集合したら車で目指すはトミーテックがあるあの方面。そうなると高速不要とばかりに新4号バイパスを北上。やっぱりこうなるか。
それでいざ現地についてお線香を上げて親族のかたとしばしいろいろなお話をしてそれから、諸事情等々ですでに納骨も済ませているというからお墓を案内されてさっそくお墓参り。それにしても突然亡くなられてビックリしたな。最近はあまり会ってなかったのが心残り。
お墓参りが終わってからは、近くで食事(お昼とも夜ともつかない微妙な時間だったな)してまた来た道を戻るようにして帰りは送ってもらって帰宅。
今回はまさかこんな週末になるとは思わなかったな。それとここだけの話、実は本来ならこの日はグランシップ鉄道模型フェスタ2021に行くつもりではいたのだが、緊急事態宣言・まん延防止等重点措置が出ているエリアからの来場はご遠慮くださいということで断念したという経緯があって開いていてよかった。というよりもコロナの自粛等々で横須賀行きもくらいしか休日は出かけないしそれこそ簡単にずらせるか。
新入社員流星 ~掘られそうになった過去~
2021年5月14日 流星の彼方(回想録)昨日、蒲田から足立に帰る道中で話題になった新入社員研修の頃の話だけどこれはマジでバレそうというか思い出してしまわないかとヒヤヒヤしていた。だって一緒に乗っていた人、流星の入社-1年(つまり就職活動中の学生だった頃)からお世話になっているから。採用活動とか新卒の研修中とか裏方として見てくれていて、前に何かの折に流星の新人研修の時のことも全部知っていると言われというか本当に知っているからもう冷や汗ダラダラ。
幸い、年月ももう20年も経っているから他の年の新人と記憶がごちゃ混ぜになっていたから良かったけど。あれは掘られたくないし触れられたくない黒歴史。
何しろ、入社して最初の新人研修の2週目からは外部研修ということで天王洲に1ヶ月ちょい通っていたけど最初は3ヶ月でドロップアウトしてしまうのではないかという不安からいつの間にか、可能性を試したいとまぁ一人勝手に突っ走ること。おまけに若いから週末ともなると毎回盛り上がったけど潰れることもあったしそれもまたネタにされるほど。
そういえば前年の先輩たちも天王洲で講師に・・・とか女子高生と・・・とかまぁ伝説を残して来たけど今年はまさかの自分が主役。さてと、ここからはBGMはdreamの My will でいきますか
https://www.youtube.com/watch?v=p6tYk4c8HjE
研修後半に隣の席に座っていた人とすっかり仲良くなって、もう他の人たちからみれば半ば付き合っているように見えるほど。それで研修最終日に思い切って・・・失敗に終わった。残っていた同期を無理やり拉致ってやけ酒に突き合わせたほど。次の日は二次研修で自分たちは違う場所に行ったけどまぁ開始していきなり自己紹介している時にどうやら顔に書いてあったらしくてブルーな気持ちでいたら隣の席の人に「浮かない顔してまさか失恋でもした?」なんて図星を喰らって自分はブルー。相手は爆笑。そして日中は集中力を切らすと寝るか想い出すかしかなかったからもう頭文字Dの如く一人限界バトル状態。
そして、夜は天王洲残留組と合わせての研修の打ち上げ。もう失敗したこと応援してくれた人に報告するのも辛かったしまさか彼女が来ているのは想定外。幸いスタートは別室だったけど最後なんだし自分らしいキャラは何だろうと思ってもうハジけまくりのおバカキャラ全開。11000回転きっちりブン回せ(またもや頭文字Dより)とばかりにバカ飲み全開、後半は同じ部屋になってからはさらに一気飲みも連発とかもう完全に壊れキャラ、その様子にうちの紅一点はドン引き(あとでこの日の自分のことを説明したら納得していたけど)。
こうして天王洲研修は終了。会社では誰かが喋って全てが筒抜けだった上に講師からのコメントを見て総務・人事の担当は頭を抱えながらため息。ひとつ上の先輩たち含めておまえら新人研修で何やっているんだということで。そして翌年から天王洲に新人研修を受けさせることは二度と無かった(完)←本当は新卒の採用中止したからですが
そしてしばらくの間、これが社内というか同期の間でネタにされたのは言うまでも無い
あぁ、もう今でもやっぱりいじめを含む高校生時代は人に話せるようになったけどこれはやっぱり黒歴史として封印しておきたい
あとがき
このことも、当時の流星は自分だけの日記なのに好きだったこととか最後までほとんど書きやしない。やっぱり鉄いやチタン製のハリセンだな。そしてもう嫌、もう身を削って黒歴史までネタにしてまでブログやりたくない(爆)
幸い、年月ももう20年も経っているから他の年の新人と記憶がごちゃ混ぜになっていたから良かったけど。あれは掘られたくないし触れられたくない黒歴史。
何しろ、入社して最初の新人研修の2週目からは外部研修ということで天王洲に1ヶ月ちょい通っていたけど最初は3ヶ月でドロップアウトしてしまうのではないかという不安からいつの間にか、可能性を試したいとまぁ一人勝手に突っ走ること。おまけに若いから週末ともなると毎回盛り上がったけど潰れることもあったしそれもまたネタにされるほど。
そういえば前年の先輩たちも天王洲で講師に・・・とか女子高生と・・・とかまぁ伝説を残して来たけど今年はまさかの自分が主役。さてと、ここからはBGMはdreamの My will でいきますか
https://www.youtube.com/watch?v=p6tYk4c8HjE
研修後半に隣の席に座っていた人とすっかり仲良くなって、もう他の人たちからみれば半ば付き合っているように見えるほど。それで研修最終日に思い切って・・・失敗に終わった。残っていた同期を無理やり拉致ってやけ酒に突き合わせたほど。次の日は二次研修で自分たちは違う場所に行ったけどまぁ開始していきなり自己紹介している時にどうやら顔に書いてあったらしくてブルーな気持ちでいたら隣の席の人に「浮かない顔してまさか失恋でもした?」なんて図星を喰らって自分はブルー。相手は爆笑。そして日中は集中力を切らすと寝るか想い出すかしかなかったからもう頭文字Dの如く一人限界バトル状態。
そして、夜は天王洲残留組と合わせての研修の打ち上げ。もう失敗したこと応援してくれた人に報告するのも辛かったしまさか彼女が来ているのは想定外。幸いスタートは別室だったけど最後なんだし自分らしいキャラは何だろうと思ってもうハジけまくりのおバカキャラ全開。11000回転きっちりブン回せ(またもや頭文字Dより)とばかりにバカ飲み全開、後半は同じ部屋になってからはさらに一気飲みも連発とかもう完全に壊れキャラ、その様子にうちの紅一点はドン引き(あとでこの日の自分のことを説明したら納得していたけど)。
こうして天王洲研修は終了。会社では誰かが喋って全てが筒抜けだった上に講師からのコメントを見て総務・人事の担当は頭を抱えながらため息。ひとつ上の先輩たち含めておまえら新人研修で何やっているんだということで。そして翌年から天王洲に新人研修を受けさせることは二度と無かった(完)←本当は新卒の採用中止したからですが
そしてしばらくの間、これが社内というか同期の間でネタにされたのは言うまでも無い
あぁ、もう今でもやっぱりいじめを含む高校生時代は人に話せるようになったけどこれはやっぱり黒歴史として封印しておきたい
あとがき
このことも、当時の流星は自分だけの日記なのに好きだったこととか最後までほとんど書きやしない。やっぱり鉄いやチタン製のハリセンだな。そしてもう嫌、もう身を削って黒歴史までネタにしてまでブログやりたくない(爆)
蒲田へ打ち合わせ・過去がバレそうに
2021年5月13日 お仕事今日は仕事で蒲田へ。この案件、最初は自分は行かない予定だったのが成り行き任せで運転手兼おまけ?という形で昨日いきなり参加することになりテレワークのはずだった人はわざわざ出社してお留守番を頼む大掛かりになことに。
ということで、午前中は妙にやることが多くて昼近くに慌ててお昼を食べて出発。もうナビは一応形だけセットして首都高も至って順調。走りなれた山手トンネルを抜け羽田で落ちて目的地に。そうえいば、山手トンネルの中はクルーズに任せてほとんどアクセルのブレーキも踏まないで走っていたけど気がついていたのかな?
着いてからは現地直行のボスとかと合わせて打ち合わせというか業務改善のための現状把握と今後についての話し合い。さらにその後は打ち合わせで使っていた会議室を引き続き借りて今度はうちの社内のことでの打ち合わせ。後者の打ち合わせは昨日、自分も行くことになったし関係する人が全員揃うからということで急遽全員の予定を確認して直帰だったからその場所を借りて打ち合わせやったほうが早いということで始めたけど実際やっぱりここで一気に話し合ってよかった。
帰りは電車で変える人はJR蒲田まで送ってあとは足立のいつもの場所へ。夕方だしどこも混んでいるから東邦通りから環七に出るときにいつもの病院の場所を説明しつつ、海沿いの357に入って多いから首都高。しっかし、今日は堀切までずっと渋滞含めて流れが悪くてクルーズも入れられないし小刻みにギアチェンジしていく必要もあったから疲れる帰りに。そして、一人になってからは久々にいつものルートで快走して帰宅。
今日は蒲田~環七で話のネタになった新人研修のことは冷や汗モノ。危うく触れられたくないというか黒歴史にしてしまいたい過去に触れられそうになったというかバレそうになったときは苦笑いで話題を変えるのに必死。この話は明日にするか。
ということで、午前中は妙にやることが多くて昼近くに慌ててお昼を食べて出発。もうナビは一応形だけセットして首都高も至って順調。走りなれた山手トンネルを抜け羽田で落ちて目的地に。そうえいば、山手トンネルの中はクルーズに任せてほとんどアクセルのブレーキも踏まないで走っていたけど気がついていたのかな?
着いてからは現地直行のボスとかと合わせて打ち合わせというか業務改善のための現状把握と今後についての話し合い。さらにその後は打ち合わせで使っていた会議室を引き続き借りて今度はうちの社内のことでの打ち合わせ。後者の打ち合わせは昨日、自分も行くことになったし関係する人が全員揃うからということで急遽全員の予定を確認して直帰だったからその場所を借りて打ち合わせやったほうが早いということで始めたけど実際やっぱりここで一気に話し合ってよかった。
帰りは電車で変える人はJR蒲田まで送ってあとは足立のいつもの場所へ。夕方だしどこも混んでいるから東邦通りから環七に出るときにいつもの病院の場所を説明しつつ、海沿いの357に入って多いから首都高。しっかし、今日は堀切までずっと渋滞含めて流れが悪くてクルーズも入れられないし小刻みにギアチェンジしていく必要もあったから疲れる帰りに。そして、一人になってからは久々にいつものルートで快走して帰宅。
今日は蒲田~環七で話のネタになった新人研修のことは冷や汗モノ。危うく触れられたくないというか黒歴史にしてしまいたい過去に触れられそうになったというかバレそうになったときは苦笑いで話題を変えるのに必死。この話は明日にするか。
油壷マリンパーク閉館に
2021年5月12日 日常https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_272.html
京急油壷マリンパークが9月30日に閉館に。今思えば、幼稚園・小学校の遠足をはじめ子どもの頃数え切れないほど行っていたんだよな。最後に行ったのは2013年の11月。今は亡き母方の祖父母と一緒に行ったのが最後。その時のブログはというと
https://25444.diarynote.jp/201404110119398915/
2階の回遊水槽とかタカアシガニの展示にイルカ・アシカショーとか2013年は懐かしいと書いているけど本当に小さい頃から変わらない良さがあった。
もっと前でいうならデハ249-250が保存されていて小さい頃はおもむろに遊んでいたな。あれは後に解体されたけど、それも何処かに残っている説とか諸説あったな。
こうしてまた幼き自分が見た光景が消えていくのは何とも言えぬ寂しさがある。さすがに大分歳とってきたな。
京急油壷マリンパークが9月30日に閉館に。今思えば、幼稚園・小学校の遠足をはじめ子どもの頃数え切れないほど行っていたんだよな。最後に行ったのは2013年の11月。今は亡き母方の祖父母と一緒に行ったのが最後。その時のブログはというと
https://25444.diarynote.jp/201404110119398915/
2階の回遊水槽とかタカアシガニの展示にイルカ・アシカショーとか2013年は懐かしいと書いているけど本当に小さい頃から変わらない良さがあった。
もっと前でいうならデハ249-250が保存されていて小さい頃はおもむろに遊んでいたな。あれは後に解体されたけど、それも何処かに残っている説とか諸説あったな。
こうしてまた幼き自分が見た光景が消えていくのは何とも言えぬ寂しさがある。さすがに大分歳とってきたな。
Windows20H2移行完了
2021年5月11日 パソコンいじり過去の回想録はちょっとお休み(あくまで開いている日を使って書きたい時に書きたいように書く予定)してリアル流星の方の話。
会社のシステム部門からWindowsのバージョンを20H2にしてくれと一斉に支持が出てものの各自で作業。うちの部署ではこういうことは自ずと自分の仕事となっているから連休前から作業を始めていてやっと全てのパソコンのアップデートが完了。
システムから最長8時間と言われているしまずはどんなものかと自分のパソコンから。celeron+HDDの鈍足コンビだと本当に8時間。しかも再起動を促したままで止まるから再起動は手動でやってそこからも長時間使えないから帰る時に始めてなんて無理。そこから休みの人のパソコンで作業して時間計測。最速が共用のデスクトップで8000番台のcore i5+SSDで1.5時間。次がcore i3+SSDのノートで4時間。これで時間がわかったからあとは移行作業を順次開始。
まずは、その日の出勤状況を見ながらデスクトップとcore i3のノートを優先的にやっていって最後はポンコツの8時間コースに。ポンコツを使っている人には休んでいたりして開いているパソコンを使って貰たりして最後は、共有で仕事の関係で中々できなかった1台を今日終わらせて約20台の更新は半月ちょっとかけて終了。
それにしてもこの台数を他のことしながら1人で面倒みるの結構疲れる。ただパソコンいじるのとか好きだからこそ苦痛ではなかったし終わった後はやりがいを感じたな。
会社のシステム部門からWindowsのバージョンを20H2にしてくれと一斉に支持が出てものの各自で作業。うちの部署ではこういうことは自ずと自分の仕事となっているから連休前から作業を始めていてやっと全てのパソコンのアップデートが完了。
システムから最長8時間と言われているしまずはどんなものかと自分のパソコンから。celeron+HDDの鈍足コンビだと本当に8時間。しかも再起動を促したままで止まるから再起動は手動でやってそこからも長時間使えないから帰る時に始めてなんて無理。そこから休みの人のパソコンで作業して時間計測。最速が共用のデスクトップで8000番台のcore i5+SSDで1.5時間。次がcore i3+SSDのノートで4時間。これで時間がわかったからあとは移行作業を順次開始。
まずは、その日の出勤状況を見ながらデスクトップとcore i3のノートを優先的にやっていって最後はポンコツの8時間コースに。ポンコツを使っている人には休んでいたりして開いているパソコンを使って貰たりして最後は、共有で仕事の関係で中々できなかった1台を今日終わらせて約20台の更新は半月ちょっとかけて終了。
それにしてもこの台数を他のことしながら1人で面倒みるの結構疲れる。ただパソコンいじるのとか好きだからこそ苦痛ではなかったし終わった後はやりがいを感じたな。
満員電車は20分まで ~ヘッドホンは命綱~
2021年5月10日 流星の彼方(回想録)
今回から時系列ごとに書くのをやめてエピソードごとに書くか。
いつからかわからない(というか、他にも後に読み返した時の事を考えて肝心なことなのに日記に書かない当時の流星を鉄製のハリセンで叩いてやりたい)けど、高校時代から2003年に正式にパニック障害ないしそれに近い症状と診断されて薬を飲むようになるまで満員電車は20分が限界だった。
それ以上乗ると胸のあたりから苦しさを感じて息苦しくなるし気持ち悪くなる。いつからかわからないけど、例えば19時台頭の横浜駅だと H特急-急行-普通-wing号の通過-H特急-急行-普通-A快特 の20分サイクルだったと思ったけど、予備校が1時間しかない時は早く終わってwing号の前のH特急と急行は乗って上大岡から運が良ければ着席で楽できたけどwing号の後のH特急は数えるほどしか乗ってない記憶が。京急久里浜には数分早く着くH特急ではなくて友人といつも12連のA快特。たぶんWing号の後は積み残しも出るほどで20分だと文庫に着くかもしれないが乗らなかったというより乗れなかった。
さらに遅い時間だと急行-普通-Wing号の通過-H特急-急行-普通-A快特だと思ったけど、この時もWing号の前の急行に乗れればいいけどそうでないなら12連のA快特まで待っていた。もっと状態が悪い日には家につくのが遅くなってもA快特かその前の普通に乗ってから上大岡でWing号を待ったこともあった。
それくらい苦手というかパニック発作を起こしてしまいそうで避けていた。とにかく周りの人と密着するほどの混雑がダメで。それは就職してクリニックに通うまでは同じ。
朝は遠距離通勤なのと久里浜始発を使って何とか着席できていたけど、大学にしても座れない時はもう大変で品川まで行くなら文庫で増結車で確実に座れるまで待ってみたり横浜まででもドア前をキープするか増結車に逃げて一旦時間をリセットして上大岡~横浜までは何とかがんばったり。着席さえしていればといっても日によってはそれすら厳しい時もあったりで。あと高校時代は八景でD急行に乗ると座れるからと愛用していたこともあったな。
大学に入ってからも横浜から京急に乗っていた時も、やっぱり昼間のサイクルから夜のサイクルになる間、特急しかない上にその特急が結構混む。結局バイトで時間が無い時は乗ったけどそうでない時はヨドバシとかゲーセンで時間を潰してから12連快特が走るようになってから乗っていた。
ただ20分制限は何も無しの話で、ヘッドホンから音楽を流していると伸ばせる。だからクリニックに通う前はヘッドホンは命綱とばかりに満員電車になりそうな時は欠かせなかったし予備バッテリーも常に持っていた。会社に入ってからの通勤で都営線の日本橋乗り換えをやっていた時も帰りは座れないと家につくのが遅くなっても品川でA快特待ちしたりWing号に乗り換えたな。あとお酒が入っている時はノーカウントだけどそうでない時の三浦海岸終とかよく耐えられたな。たぶん音楽を聞いていただろうけど。逆に、日記にヘッドホンを忘れた時はきつかった書いてあったり予備のバッテリーも切れて大変だったというのもあったな。
首都圏では比較的混雑が緩い京急だったということと、鉄の知識を使って混雑列車を回避したりなにより朝は文庫で増結することに助けられた部分はあったな。ただこれが東西線とか田園都市線沿線だったら逆に、途中で降りて休憩しないととか具合悪くなってもっと早くパニック障害の疑いがということで病院に行っていたかもしれない。
今日の写真はそんな12連の列車のなかで合計48扉でラッシュを捌いていた700形のみの通勤快特11Bの折返し回送。
いつからかわからない(というか、他にも後に読み返した時の事を考えて肝心なことなのに日記に書かない当時の流星を鉄製のハリセンで叩いてやりたい)けど、高校時代から2003年に正式にパニック障害ないしそれに近い症状と診断されて薬を飲むようになるまで満員電車は20分が限界だった。
それ以上乗ると胸のあたりから苦しさを感じて息苦しくなるし気持ち悪くなる。いつからかわからないけど、例えば19時台頭の横浜駅だと H特急-急行-普通-wing号の通過-H特急-急行-普通-A快特 の20分サイクルだったと思ったけど、予備校が1時間しかない時は早く終わってwing号の前のH特急と急行は乗って上大岡から運が良ければ着席で楽できたけどwing号の後のH特急は数えるほどしか乗ってない記憶が。京急久里浜には数分早く着くH特急ではなくて友人といつも12連のA快特。たぶんWing号の後は積み残しも出るほどで20分だと文庫に着くかもしれないが乗らなかったというより乗れなかった。
さらに遅い時間だと急行-普通-Wing号の通過-H特急-急行-普通-A快特だと思ったけど、この時もWing号の前の急行に乗れればいいけどそうでないなら12連のA快特まで待っていた。もっと状態が悪い日には家につくのが遅くなってもA快特かその前の普通に乗ってから上大岡でWing号を待ったこともあった。
それくらい苦手というかパニック発作を起こしてしまいそうで避けていた。とにかく周りの人と密着するほどの混雑がダメで。それは就職してクリニックに通うまでは同じ。
朝は遠距離通勤なのと久里浜始発を使って何とか着席できていたけど、大学にしても座れない時はもう大変で品川まで行くなら文庫で増結車で確実に座れるまで待ってみたり横浜まででもドア前をキープするか増結車に逃げて一旦時間をリセットして上大岡~横浜までは何とかがんばったり。着席さえしていればといっても日によってはそれすら厳しい時もあったりで。あと高校時代は八景でD急行に乗ると座れるからと愛用していたこともあったな。
大学に入ってからも横浜から京急に乗っていた時も、やっぱり昼間のサイクルから夜のサイクルになる間、特急しかない上にその特急が結構混む。結局バイトで時間が無い時は乗ったけどそうでない時はヨドバシとかゲーセンで時間を潰してから12連快特が走るようになってから乗っていた。
ただ20分制限は何も無しの話で、ヘッドホンから音楽を流していると伸ばせる。だからクリニックに通う前はヘッドホンは命綱とばかりに満員電車になりそうな時は欠かせなかったし予備バッテリーも常に持っていた。会社に入ってからの通勤で都営線の日本橋乗り換えをやっていた時も帰りは座れないと家につくのが遅くなっても品川でA快特待ちしたりWing号に乗り換えたな。あとお酒が入っている時はノーカウントだけどそうでない時の三浦海岸終とかよく耐えられたな。たぶん音楽を聞いていただろうけど。逆に、日記にヘッドホンを忘れた時はきつかった書いてあったり予備のバッテリーも切れて大変だったというのもあったな。
首都圏では比較的混雑が緩い京急だったということと、鉄の知識を使って混雑列車を回避したりなにより朝は文庫で増結することに助けられた部分はあったな。ただこれが東西線とか田園都市線沿線だったら逆に、途中で降りて休憩しないととか具合悪くなってもっと早くパニック障害の疑いがということで病院に行っていたかもしれない。
今日の写真はそんな12連の列車のなかで合計48扉でラッシュを捌いていた700形のみの通勤快特11Bの折返し回送。
自分の道を突き進め ~学校に背を向けても~
2021年5月9日 流星の彼方(回想録)
高校2年が終わり受験シーズンとなる3年は1年の時に引き離して欲しいとお願いした人と同じになるし時折、向こうは遊び半分でいじってきたりするけど当時の自分からすれば話しかけられたりするのがやっぱり怖いし緊張してしまう。そして気持ちが不安定だから落ち込みやすかった。
さらに、2年の年末から勉強中とか授業中に胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりして気持ちが不安定になることが出てきて勉強時間とか内容はコンディション次第で思うようにできなくて歯がゆい思いをずっとしてきた。
そんなことがある上に相変わらずクラスでは馴染めないし友だちとも段々とギクシャクが出てきたりして、結局周りの人に心を開けば傷つくだけだしこれ以上傷つけば壊れてしまいそうだから一人でいることが多かった。自分にも問題があったし周りの環境に適応できなかったのもあるし、やっぱり傷ついた理由を考えれば学校に対して怒りの感情も起きてくるしそんな時に出た結論が学校を捨てること。
そんな決意をするときに聞いていたのが鈴木彩子のアルバム「愛があるなら」から「僕はここにいるよ」
https://www.youtube.com/watch?v=4nnQfqer290
17・18歳くらいだったから反発心もあったし鈴木彩子さんの曲の影響もあっただろうな。
もう、学校を捨てると決めてからの割り切り方はキッパリしていたな。授業なんて一部を除いて内職。それもだんだんエスカレートして最前列で目の前が教団だろうと教科書を開く素振りもまったくしないで予備校のテキストをおもむろに広げるなんて当たり前で友人曰く「邪道」。学校行事は何それ美味しいのということで?。大抵欠席。周りともあまり関わらなかったし、中退して大検とるならという感じで通っていたようなもの。
まぁ推薦入試を受けられないほどひどい成績だったから、学校の言う内申を確保してなんてことも日記を書く前だから2年の1学期くらいにはもう無理とわかっていて一般受験以外の選択肢が無かった=一般受験組にできることは限られているというのと、予備校の先生が一般受験なら内申なんて全く見ないと言っていたのが拍車をかけていたか。
それでも、先生に怒られたことはあまりなかったな。授業だって全く話を聞いてないし卒業遠足なんて、ふざけて予備校の日だから時間になったら一人で舞浜から電車で帰っていいですか?なんて舐めたこと聞いた上に、ダメと言われた瞬間に欠席を宣言するとか。やっていたのに。こんなこと正しいとか正しくないなんてこと、当時の自分もさすがに正しいかどうか考えた結論は今年1年限りでもう二度とやらないと誓うこと。
昔の話をこうやって単体で書くとどうしても話が重たくなるしということで、ちょっと和らげる意味でもその当時撮影していた写真でも。この頃の話はあまり話したくないし話さない中で抵抗感が無い数少ないエピソードといえば格上げ前の急行東海を夢中で撮影してた頃。というか、よく高校生の小遣いでフィルム+現像で2000円は超えるリバーサルしかもコダクロームを何本も使えたな。
さらに、2年の年末から勉強中とか授業中に胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりして気持ちが不安定になることが出てきて勉強時間とか内容はコンディション次第で思うようにできなくて歯がゆい思いをずっとしてきた。
そんなことがある上に相変わらずクラスでは馴染めないし友だちとも段々とギクシャクが出てきたりして、結局周りの人に心を開けば傷つくだけだしこれ以上傷つけば壊れてしまいそうだから一人でいることが多かった。自分にも問題があったし周りの環境に適応できなかったのもあるし、やっぱり傷ついた理由を考えれば学校に対して怒りの感情も起きてくるしそんな時に出た結論が学校を捨てること。
そんな決意をするときに聞いていたのが鈴木彩子のアルバム「愛があるなら」から「僕はここにいるよ」
https://www.youtube.com/watch?v=4nnQfqer290
17・18歳くらいだったから反発心もあったし鈴木彩子さんの曲の影響もあっただろうな。
もう、学校を捨てると決めてからの割り切り方はキッパリしていたな。授業なんて一部を除いて内職。それもだんだんエスカレートして最前列で目の前が教団だろうと教科書を開く素振りもまったくしないで予備校のテキストをおもむろに広げるなんて当たり前で友人曰く「邪道」。学校行事は何それ美味しいのということで?。大抵欠席。周りともあまり関わらなかったし、中退して大検とるならという感じで通っていたようなもの。
まぁ推薦入試を受けられないほどひどい成績だったから、学校の言う内申を確保してなんてことも日記を書く前だから2年の1学期くらいにはもう無理とわかっていて一般受験以外の選択肢が無かった=一般受験組にできることは限られているというのと、予備校の先生が一般受験なら内申なんて全く見ないと言っていたのが拍車をかけていたか。
それでも、先生に怒られたことはあまりなかったな。授業だって全く話を聞いてないし卒業遠足なんて、ふざけて予備校の日だから時間になったら一人で舞浜から電車で帰っていいですか?なんて舐めたこと聞いた上に、ダメと言われた瞬間に欠席を宣言するとか。やっていたのに。こんなこと正しいとか正しくないなんてこと、当時の自分もさすがに正しいかどうか考えた結論は今年1年限りでもう二度とやらないと誓うこと。
昔の話をこうやって単体で書くとどうしても話が重たくなるしということで、ちょっと和らげる意味でもその当時撮影していた写真でも。この頃の話はあまり話したくないし話さない中で抵抗感が無い数少ないエピソードといえば格上げ前の急行東海を夢中で撮影してた頃。というか、よく高校生の小遣いでフィルム+現像で2000円は超えるリバーサルしかもコダクロームを何本も使えたな。
長い放課後との出会い ~セカンドバースデーの日~
2021年5月8日 流星の彼方(回想録)みなさんは自分にとってのセカンドバースデーという日はありますか?いきなりこんな質問したけどセカンドバースデー=生まれ変わった日という意味があるそうですが流星にもあります。
セカンドバースデーは10月15日。といっても、起きてから寝るまでを一日としてカウントしているから意識としては10月14日。この日は筋金入りの鉄なんだから鉄道の日をセカンドバースデーにしているんだろうとツッコミが入りそうですがそれはハズレ。本当に意味があるから。
高校2年になって5/7の日記に書いた通り配慮されたクラス編成のおかげでちょっとずつだけど平穏な日常た戻ってきたし友だちもできてきた。友だちの一人が嘉門達夫の大ファンでというか自分も好きで土曜の深夜(日曜日)に東京FMで爆裂スーパーファンタジーは毎週聴いていたな。といっても深夜1時スタートだから毎回リアルタイムなんてことは無理で寝落ちもあったから毎回録音は欠かせなかったな。
そして、セカンドバースデーになったのは95年10月14日OA(実際の放送日は10月15日)のエンディング付近。95年の5月までパーソナリティーを務めていた鈴木彩子さん(彩子さんの爆裂は実は2回くらいしか聴いてなかった)のアルバム「愛があるなら」の中から「長い放課後」がシングル・カットされるというのでその宣伝のためにフルコーラスで掛けられこの日は寝落ちすることもなくリアルで聴いていた。その曲はと言うとyoutubeにもあって
https://www.youtube.com/watch?v=U6sY1VTrK-s
もう歌詞を聞けばすぐにわかるけどイジメをテーマにした曲でストレートな歌詞と彩子さんのハスキーボイスが力強いメッセージを放っている。
14日の夜は遅かったからそのまま寝たけど起きてからはもうなんだかすごい違和感を感じてこの日だけで長い放課後の録音を軽く10回は聴いたな。そして、ようやく去年1年間がいじめが合ったことを思い出ししそして自分を覆い尽くしていたモヤモヤとした感じも吹き飛ばしてくれた。
2年生になってからは友だちとかには無意識のうちに1年のことはほとんど話さなかったし成績もやっぱり1年の3学期以来ずっと悪いまま。日が経ってからは段々とモヤがかかったような、これは本当の自分ではないという違和感を感じていたけど何が原因かもわからなかったのがこの1曲が全て吹き飛ばしてくれた。1年の3学期から失いかけていた感情とか心が感じる力も戻ってきた。
だから今まで封じ込めていたものが一気に開放されるきっかけとなる長い放課後と出会えた10月15(14)日。それは生まれ変わったというか、心の再生が始まったからmyセカンドバースデー。同時に深い心の傷を抱えながらでも生かないという運命を認識した日でもあるな。
それ以来、セカンドバースデーはもちろん誰にも祝ってもらえるわけもない自分だけのひっそりとしたバースデー。日付が変わってから必ず長い放課後を聞いてこの1年間、無事にいられたこと、色々な人がいたから今があることを感謝するようになったな。
そして長い放課後はイジメによって亡くなられた人たちの鎮魂歌(=レクイエム)だと思っているからいじめに関係する事件のニュースを見たり聞いたりした後は一人でこれを聞いている、今回の旭川の事件でもやっぱり同じようにこの曲を聞きながら爽彩さんが安らかに眠るとともにこれが最後のいじめによる犠牲者であってほしいと願いながら聞いていた。もうセカンドバースデー以外で聞くことがないような世の中にして欲しい。
おまけ この長い放課後はその直後のシングルの発売日に勿論買いました。そしてこれが収録されているアルバム「愛があるなら」も買ったし何回も聞いたな。
セカンドバースデーは10月15日。といっても、起きてから寝るまでを一日としてカウントしているから意識としては10月14日。この日は筋金入りの鉄なんだから鉄道の日をセカンドバースデーにしているんだろうとツッコミが入りそうですがそれはハズレ。本当に意味があるから。
高校2年になって5/7の日記に書いた通り配慮されたクラス編成のおかげでちょっとずつだけど平穏な日常た戻ってきたし友だちもできてきた。友だちの一人が嘉門達夫の大ファンでというか自分も好きで土曜の深夜(日曜日)に東京FMで爆裂スーパーファンタジーは毎週聴いていたな。といっても深夜1時スタートだから毎回リアルタイムなんてことは無理で寝落ちもあったから毎回録音は欠かせなかったな。
そして、セカンドバースデーになったのは95年10月14日OA(実際の放送日は10月15日)のエンディング付近。95年の5月までパーソナリティーを務めていた鈴木彩子さん(彩子さんの爆裂は実は2回くらいしか聴いてなかった)のアルバム「愛があるなら」の中から「長い放課後」がシングル・カットされるというのでその宣伝のためにフルコーラスで掛けられこの日は寝落ちすることもなくリアルで聴いていた。その曲はと言うとyoutubeにもあって
https://www.youtube.com/watch?v=U6sY1VTrK-s
もう歌詞を聞けばすぐにわかるけどイジメをテーマにした曲でストレートな歌詞と彩子さんのハスキーボイスが力強いメッセージを放っている。
14日の夜は遅かったからそのまま寝たけど起きてからはもうなんだかすごい違和感を感じてこの日だけで長い放課後の録音を軽く10回は聴いたな。そして、ようやく去年1年間がいじめが合ったことを思い出ししそして自分を覆い尽くしていたモヤモヤとした感じも吹き飛ばしてくれた。
2年生になってからは友だちとかには無意識のうちに1年のことはほとんど話さなかったし成績もやっぱり1年の3学期以来ずっと悪いまま。日が経ってからは段々とモヤがかかったような、これは本当の自分ではないという違和感を感じていたけど何が原因かもわからなかったのがこの1曲が全て吹き飛ばしてくれた。1年の3学期から失いかけていた感情とか心が感じる力も戻ってきた。
だから今まで封じ込めていたものが一気に開放されるきっかけとなる長い放課後と出会えた10月15(14)日。それは生まれ変わったというか、心の再生が始まったからmyセカンドバースデー。同時に深い心の傷を抱えながらでも生かないという運命を認識した日でもあるな。
それ以来、セカンドバースデーはもちろん誰にも祝ってもらえるわけもない自分だけのひっそりとしたバースデー。日付が変わってから必ず長い放課後を聞いてこの1年間、無事にいられたこと、色々な人がいたから今があることを感謝するようになったな。
そして長い放課後はイジメによって亡くなられた人たちの鎮魂歌(=レクイエム)だと思っているからいじめに関係する事件のニュースを見たり聞いたりした後は一人でこれを聞いている、今回の旭川の事件でもやっぱり同じようにこの曲を聞きながら爽彩さんが安らかに眠るとともにこれが最後のいじめによる犠牲者であってほしいと願いながら聞いていた。もうセカンドバースデー以外で聞くことがないような世の中にして欲しい。
おまけ この長い放課後はその直後のシングルの発売日に勿論買いました。そしてこれが収録されているアルバム「愛があるなら」も買ったし何回も聞いたな。
二重の破壊 ~イジメが消せないトラウマになった理由~
2021年5月7日 流星の彼方(回想録)今回からこのブログを書き始める前の流星のことを中心に書く新カテゴリ 流星の彼方(回想録)を追加します。
日記を持ってきたしいずれなんて言わないでこのタイミングで過去のこと少しずつ書こうと思って日記の開いている日を使って行こうと思うのですが、まずこれを書く前に一言。
子どもというのは傷つきやすく、大人にとってこんなことで?ということでも深く傷いてしまうこと。そして今だに昔のことを引きずってと思うかもしれませんが、消えない記憶になってしまったのは事実で自分以外にもいや自分以上に過去の記憶に苦しんでいる人がいることを少しでもわかって欲しいです。
流星にとっていじめの経験が、今も消えないトラウマになったのは小学校と高校の時の二つのいじめがあったから。本当は具体的に書きたいけど書くほどにその時のことを思い出してフラッシュバックを起こすから深く書けないのは少々残念だけなんですが。
小学校の時は暴力的なこと。体にアザを無数に作らされたこともあったし、今でもフラッシュバックするのは昼休みというか給食を配っている時間にトイレにある用具入れに閉じ込められたこと。複数が相手だから出られるわけもないしひたすら真っ暗な中で戸を叩かれて泣くまで出してくれない。先生は喧嘩両成敗だから少しでも反撃すれば喧嘩となるし相手が口裏合わせればそこまで。それが続いたのは卒業近くのこと。幸い、中学に入ってからはイジられキャラだし多少はあったにせよそれ以上に楽しいことがあったからそんな記憶もその当時はすっかり忘れていたし、後にトラウマになるとは思っていなかったもし高校の時のことが無ければ多分、今だに思い出すようなことも無かっただろうな。
高校は今度は精神的なこと。入学してたった1ヶ月ちょっとの間は何となく周りともうまくやれたよ。でも一瞬にしてそれを崩された時はもう何をどうしたらいいいのかわからなかったしどうすることもできなかった。ただ学年が終わってクラス替えになるまで耐えないといけないと思っていた。
その時は夏休みまではそんな長くなかったから辛かったけど何とか持ちこたえられた。最初の夏休みは傷を癒やすのに十分な時間もあったし予備校の夏期講習に刺激されたのもあって勉強で見返してやろうとか体は無傷なんだから気にしなければいいのでは?と思ったりもしてうまく跳ね返せていたのが2学期。ただやっぱりクラスで孤立していたし色々言われたりでいくら跳ね返したつもりでもやっぱりダメージはどんどん蓄積されてきていたことには気が付けなくてそれが後のさらに追い込まれていくことに。
3学期というか年が明けてからは跳ね返すとか見返すという気力が無くなりもうボロボロ。いくら悪口とか冗談半分でも聞こえる範囲でどうしたいとか話して盛り上がっているから暴力とかに発展しないかと怯えていた。そしてどんどん感情が麻痺してきたのも解ってきたし気持ちも荒んでいた。もう辛いとか苦しいということも感じなくなった変わりに、寂しいとか虚しい感じて時には帰り道、自転車であてもなく走ったこともあった。来年も、再来年もこんな環境ならと考えたりしてもう生きることを放棄したかった。ちょうど、いじめが社会問題になっていて連日のように自殺が報じられて自分もその中に一人になればと思っていたりさえしていた。これが最後の犠牲者だとして。
それでも結局、子どもなりのプライドがあるから小学校の時も体のあちこちにアザを作ったりしても中々言えなかったし、高校の時もやっぱり親とかには言えないままなんだよね。決して自分だけではなくて多くの子どもたちがそうだから。だからこそ周りの大人達は子どもが無意識のうちに出すSOSに気が付いて助けてあげないと。これは自分の経験からも言えること。最近は子どもに自らSOSを出すようにと教えているみたいなのはいい方向だな。あの頃も自分ももっと早く余計なプライドを捨ててSOSを出せていればとは思っている。
本当に思い詰めていた時に救いの手が伸びたのは1年の時の学年末。担任に呼び出されて2年の時のクラス分けを配慮してくれると言われた時。先生たちの間でも何か答えて間違えた時に一部の人が極端なリアクションをしたりして何かおかしいと薄々気がつき始めていたのと同じクラスの一部の人が心配して動いていたのが呼び出しにつながった。最初は答えるのも躊躇したけど少しの間を置いてから1年間で起きていることを少し話したのとワガママだったかもしれないけど傷つけくる相手の名前を上げた。そうしたら2年の時は本当にその人たちとは別のクラスになっていたな。まさかたった1人のためにクラス編成まで変えてしまうとか先生は本当は味方だったのかな?
結局、命を放棄する寸前まで思い詰めてしまっていた。そんなこともあって今でも生き残ることができた自分と多くの自殺してしまった人との違いなんてよくわかっていない。だからこそ踏み止まれる何かがあれば多く人は救えたと思う。
小学校の時の記憶をすっかり忘れていたから高校の時は何で命ないし精神的な危機に瀕するほどのことになってしまったのか、深い心の傷として残ってしまったのか疑問に思っていた。でもその時はわからなかった。
それが解けたのは大学に入ってフラッシュバックを起こすようになってから。はじめは高校のことだけだったのに小学校の時のことも出てくるようになってから。小学校の時に傷ついた心の弱いところに高校で再度傷つくことによる二重の破壊が深刻化させてしまった。
結局、高校2年生以降、ずっとトラウマが色々と影響していたけどそれでも決して未来を諦めなかったし、大学入試・就職活動は一応成功しているから履歴書上はうまく取り繕うことができている。ただ茨の道になってしまった部分もあるしそれでもがんばれた自分は今でもすごいと思っている。ただその代償も大きかったけど。
日記を持ってきたしいずれなんて言わないでこのタイミングで過去のこと少しずつ書こうと思って日記の開いている日を使って行こうと思うのですが、まずこれを書く前に一言。
子どもというのは傷つきやすく、大人にとってこんなことで?ということでも深く傷いてしまうこと。そして今だに昔のことを引きずってと思うかもしれませんが、消えない記憶になってしまったのは事実で自分以外にもいや自分以上に過去の記憶に苦しんでいる人がいることを少しでもわかって欲しいです。
流星にとっていじめの経験が、今も消えないトラウマになったのは小学校と高校の時の二つのいじめがあったから。本当は具体的に書きたいけど書くほどにその時のことを思い出してフラッシュバックを起こすから深く書けないのは少々残念だけなんですが。
小学校の時は暴力的なこと。体にアザを無数に作らされたこともあったし、今でもフラッシュバックするのは昼休みというか給食を配っている時間にトイレにある用具入れに閉じ込められたこと。複数が相手だから出られるわけもないしひたすら真っ暗な中で戸を叩かれて泣くまで出してくれない。先生は喧嘩両成敗だから少しでも反撃すれば喧嘩となるし相手が口裏合わせればそこまで。それが続いたのは卒業近くのこと。幸い、中学に入ってからはイジられキャラだし多少はあったにせよそれ以上に楽しいことがあったからそんな記憶もその当時はすっかり忘れていたし、後にトラウマになるとは思っていなかったもし高校の時のことが無ければ多分、今だに思い出すようなことも無かっただろうな。
高校は今度は精神的なこと。入学してたった1ヶ月ちょっとの間は何となく周りともうまくやれたよ。でも一瞬にしてそれを崩された時はもう何をどうしたらいいいのかわからなかったしどうすることもできなかった。ただ学年が終わってクラス替えになるまで耐えないといけないと思っていた。
その時は夏休みまではそんな長くなかったから辛かったけど何とか持ちこたえられた。最初の夏休みは傷を癒やすのに十分な時間もあったし予備校の夏期講習に刺激されたのもあって勉強で見返してやろうとか体は無傷なんだから気にしなければいいのでは?と思ったりもしてうまく跳ね返せていたのが2学期。ただやっぱりクラスで孤立していたし色々言われたりでいくら跳ね返したつもりでもやっぱりダメージはどんどん蓄積されてきていたことには気が付けなくてそれが後のさらに追い込まれていくことに。
3学期というか年が明けてからは跳ね返すとか見返すという気力が無くなりもうボロボロ。いくら悪口とか冗談半分でも聞こえる範囲でどうしたいとか話して盛り上がっているから暴力とかに発展しないかと怯えていた。そしてどんどん感情が麻痺してきたのも解ってきたし気持ちも荒んでいた。もう辛いとか苦しいということも感じなくなった変わりに、寂しいとか虚しい感じて時には帰り道、自転車であてもなく走ったこともあった。来年も、再来年もこんな環境ならと考えたりしてもう生きることを放棄したかった。ちょうど、いじめが社会問題になっていて連日のように自殺が報じられて自分もその中に一人になればと思っていたりさえしていた。これが最後の犠牲者だとして。
それでも結局、子どもなりのプライドがあるから小学校の時も体のあちこちにアザを作ったりしても中々言えなかったし、高校の時もやっぱり親とかには言えないままなんだよね。決して自分だけではなくて多くの子どもたちがそうだから。だからこそ周りの大人達は子どもが無意識のうちに出すSOSに気が付いて助けてあげないと。これは自分の経験からも言えること。最近は子どもに自らSOSを出すようにと教えているみたいなのはいい方向だな。あの頃も自分ももっと早く余計なプライドを捨ててSOSを出せていればとは思っている。
本当に思い詰めていた時に救いの手が伸びたのは1年の時の学年末。担任に呼び出されて2年の時のクラス分けを配慮してくれると言われた時。先生たちの間でも何か答えて間違えた時に一部の人が極端なリアクションをしたりして何かおかしいと薄々気がつき始めていたのと同じクラスの一部の人が心配して動いていたのが呼び出しにつながった。最初は答えるのも躊躇したけど少しの間を置いてから1年間で起きていることを少し話したのとワガママだったかもしれないけど傷つけくる相手の名前を上げた。そうしたら2年の時は本当にその人たちとは別のクラスになっていたな。まさかたった1人のためにクラス編成まで変えてしまうとか先生は本当は味方だったのかな?
結局、命を放棄する寸前まで思い詰めてしまっていた。そんなこともあって今でも生き残ることができた自分と多くの自殺してしまった人との違いなんてよくわかっていない。だからこそ踏み止まれる何かがあれば多く人は救えたと思う。
小学校の時の記憶をすっかり忘れていたから高校の時は何で命ないし精神的な危機に瀕するほどのことになってしまったのか、深い心の傷として残ってしまったのか疑問に思っていた。でもその時はわからなかった。
それが解けたのは大学に入ってフラッシュバックを起こすようになってから。はじめは高校のことだけだったのに小学校の時のことも出てくるようになってから。小学校の時に傷ついた心の弱いところに高校で再度傷つくことによる二重の破壊が深刻化させてしまった。
結局、高校2年生以降、ずっとトラウマが色々と影響していたけどそれでも決して未来を諦めなかったし、大学入試・就職活動は一応成功しているから履歴書上はうまく取り繕うことができている。ただ茨の道になってしまった部分もあるしそれでもがんばれた自分は今でもすごいと思っている。ただその代償も大きかったけど。
連休最終日は横須賀から持って帰ってきた日記の解析のスタート。
これがとにかく難物でまずは、今もだけど字が汚くて読めない(爆)しかも精神状態が悪い日はより字が小さくなっていて誤字・脱字含めてもうこれは簡易的な暗号化されているような代物だからわからん。
そして、もう一つわからなかったのが固有名詞出しすぎ。人物はまだいいが特に学校と予備校の授業。結局、ネットで過去のカレンダーから曜日を特定して記憶を掘り出したけどこれも一筋縄ではいかない。
あと本筋ではない領域だけど当時の京急の時刻表も必要になってきたな。というのも、その頃というか具体的に言えば当時の予備校は横浜で帰りは着席通学なんて不可能な話でパニック障害に近いものがあったから満員電車には長時間乗れなかったからその回避方法を身に着けていたはずが思い出せないし日記にもほとんど記述が無いからこれまた困ったもの。パニックが起きたのか知りたかったし、それを意識的に回避するようになったのも知りたかったけどこれはわからず仕舞いになりそう。
今日はあまりの内容に深くは見なかったけどパソコンにした大学時代の半分くらいまで軽く読んで大体わかった部分はあるし近いうちにまとめ始めるか。
これがとにかく難物でまずは、今もだけど字が汚くて読めない(爆)しかも精神状態が悪い日はより字が小さくなっていて誤字・脱字含めてもうこれは簡易的な暗号化されているような代物だからわからん。
そして、もう一つわからなかったのが固有名詞出しすぎ。人物はまだいいが特に学校と予備校の授業。結局、ネットで過去のカレンダーから曜日を特定して記憶を掘り出したけどこれも一筋縄ではいかない。
あと本筋ではない領域だけど当時の京急の時刻表も必要になってきたな。というのも、その頃というか具体的に言えば当時の予備校は横浜で帰りは着席通学なんて不可能な話でパニック障害に近いものがあったから満員電車には長時間乗れなかったからその回避方法を身に着けていたはずが思い出せないし日記にもほとんど記述が無いからこれまた困ったもの。パニックが起きたのか知りたかったし、それを意識的に回避するようになったのも知りたかったけどこれはわからず仕舞いになりそう。
今日はあまりの内容に深くは見なかったけどパソコンにした大学時代の半分くらいまで軽く読んで大体わかった部分はあるし近いうちにまとめ始めるか。
昨日、横須賀から帰ってきて今日塗装して仕上げたのがキハ58の屋根塗装。
去年、手持ちの急行型電車すべてにやったから今度は気動車ということでキハ58の多数を施工。横須賀にいた間は夜中にガサゴソ(笑)やっただけではなくて合間をみてマスキングしておいただけのことはある。
やっぱりやればはっきりいって全くの別物に見える。あとは修学旅行色もジャンクでいくつか買ってはあるからLEDヘッドライト化もやりたくなってくる。前のコンベンションのときは先頭のキハ28だけLED化してごまかしたし九州急行色もLED化したいな。数両残したからこれは近いうちにやるとするか。
去年、手持ちの急行型電車すべてにやったから今度は気動車ということでキハ58の多数を施工。横須賀にいた間は夜中にガサゴソ(笑)やっただけではなくて合間をみてマスキングしておいただけのことはある。
やっぱりやればはっきりいって全くの別物に見える。あとは修学旅行色もジャンクでいくつか買ってはあるからLEDヘッドライト化もやりたくなってくる。前のコンベンションのときは先頭のキハ28だけLED化してごまかしたし九州急行色もLED化したいな。数両残したからこれは近いうちにやるとするか。
続:昔の思い出を取りに横須賀へ
2021年5月2日 日常今回、MP3よりも回収したかった物は何かというと昔の日記。
昔のように?家族が全員寝静まったのを確認してからあやふやな記憶を頼りに隠した場所を探りあてて回収。昔は無防備な状態で置いていたとか今考えると正気の沙汰と思えないがまぁ其の頃は、机の上も中もファンタジーだから漁るわけもないか。
実は、相当昔から日記をつける習慣はあってそれも時代によって媒体が違っていて今回回収していたのは一番最初の手書き時代のもの。A6サイズの手帳程度のノートに手書きで。その後はパソコンで書いて、そしてこのブログに。ブログを書き始めてからもしばらくはやっぱりここにはプライバシーとかの関係で書くわけにはいかないこともあるし、更新が遅れるからその間を埋める役目もあってローカル・ブログ併用の後に今はここのみに。ここも、やっぱりプライバシーとかの兼ね合いで全てを書くわけにはいかないけど自分の記憶を呼び戻すための手がかりに十分ということがわかったから。
4/24に書いた通り、過去のことはいずれ書くといってもさすがに記憶だけではという部分もあるし何よりも今の視点で当時の日記を読み返すことで今までわからないままにしていたことや客観的に見ることもできるのでは無いかと思っている。そして最終目標はこれの始末。さすがにこれだけは家族にも見せたくないから墓場まで持っていくことにさせてもらうからそのための回収も兼ねているか。
昔のように?家族が全員寝静まったのを確認してからあやふやな記憶を頼りに隠した場所を探りあてて回収。昔は無防備な状態で置いていたとか今考えると正気の沙汰と思えないがまぁ其の頃は、机の上も中もファンタジーだから漁るわけもないか。
実は、相当昔から日記をつける習慣はあってそれも時代によって媒体が違っていて今回回収していたのは一番最初の手書き時代のもの。A6サイズの手帳程度のノートに手書きで。その後はパソコンで書いて、そしてこのブログに。ブログを書き始めてからもしばらくはやっぱりここにはプライバシーとかの関係で書くわけにはいかないこともあるし、更新が遅れるからその間を埋める役目もあってローカル・ブログ併用の後に今はここのみに。ここも、やっぱりプライバシーとかの兼ね合いで全てを書くわけにはいかないけど自分の記憶を呼び戻すための手がかりに十分ということがわかったから。
4/24に書いた通り、過去のことはいずれ書くといってもさすがに記憶だけではという部分もあるし何よりも今の視点で当時の日記を読み返すことで今までわからないままにしていたことや客観的に見ることもできるのでは無いかと思っている。そして最終目標はこれの始末。さすがにこれだけは家族にも見せたくないから墓場まで持っていくことにさせてもらうからそのための回収も兼ねているか。
昔の思い出を取りに横須賀へ
2021年5月1日 日常今日からの連休はとりあえず前半3日は横須賀にいることに。何しろ4月は前半は例のあれのこともあって後半はもう連休が近いからいいやということで2ヶ月ぶりに。それで今回は友だちにはクローズ。さすがにこんな時季だから会うのもためらってしまう。
そんな今回の目的は暑くなってきたし衣替えということで服の起ききれない分の入れ替えと昔の思い出の回収。その思い出というのはMP3と過去の日記。
ちょっと前の書き込みで昔、聞いていた曲に再び癒やしと力を貰ったと書いたけどまさにその通りなんだけどということで昔の曲がちょっとマイブーム。主だったものは今のパソコンにもMP3があるけどもうちょい範囲を広げて。2000年くらいからはCDに焼いたMP3を再生できるウォークマンが出て愛用していたからそのためのCDが残っているからそこからもう一度聞きたいものを抜き出してくる予定。そして、もう一つこれの発掘をせねば。それは明日のネタにするか。
そんな今回の目的は暑くなってきたし衣替えということで服の起ききれない分の入れ替えと昔の思い出の回収。その思い出というのはMP3と過去の日記。
ちょっと前の書き込みで昔、聞いていた曲に再び癒やしと力を貰ったと書いたけどまさにその通りなんだけどということで昔の曲がちょっとマイブーム。主だったものは今のパソコンにもMP3があるけどもうちょい範囲を広げて。2000年くらいからはCDに焼いたMP3を再生できるウォークマンが出て愛用していたからそのためのCDが残っているからそこからもう一度聞きたいものを抜き出してくる予定。そして、もう一つこれの発掘をせねば。それは明日のネタにするか。