いじめの後遺症 ~クリニック通院前夜~
今回は、いじめの向こう側(後遺症)とクリニックに通い始めることになった2003年の6月へつながる話。

大学に入って環境が変わればあとは時が解決してくれると思っていた、でもそれは己が単に無知だっただけのこと。受験の時にもうパニック障害が起きていたし寝る時に気持ちが不安定になり過呼吸を起こして苦しくなるパニック発作は相変わらずどころかその後さらに色々な症状がでてくることに。

入学してすぐに対人恐怖症気味だし同世代の人とのコミュニティ能力なんて相当低かったから周りに溶け込めなかったし話していてもギクシャクが多かったと思う。さらには5月病のちょっとひどいのというより今の視点でいえばうつ状態にもなってそれが相談室でカウンセラーと話すことにした理由。さらには小学校・高校のいじめがフラッシュバックしてくるように。

寝る時のパニック発作もフラッシュバックが入ると相当辛かった。何時間も苦しくて眠れないし寝られても辛い気持ちで目が覚めるそして、それが何日も続いた時はもう限界というか自分が壊れると思ったしあの時必死に闘ったのは何のため?なんて思ったりもした。

そして、どんな状態なのかも調べた。ちょうど、阪神大震災や地下鉄サリン事件の後でトラウマとかに関する本はたくさんあったし大学の図書館は学科外でも一般教養で授業があるから専門書もある。トラウマとかPTSDとかその頃から概念はわかっていたけど自分には完全に当てはまるものではなかったし、親もそうだけど自分もまだ精神科とかへの偏見もあったから病院にも行かなかった。

そして眠れない時は隠し持っていた余った風邪薬で眠くなるものをつかって強引に眠ったこともった。そしてそんな状態だったから就職も氷河期ということもあったからできるかどうか続くかどうかなんて全く自信もあるわけもなかったし、今40歳を過ぎているけどこの年令まで自分が生きているということすらイメージできなかった。

といっても、大学とかバイト先の環境に恵まれたおかげで無事卒業もできたしそれなりに大学生活を楽しめたのは事実。うつ状態で学校に行けなかったのもダメ学生なフリして意図的にサボっているとかわざと遅れて行ったりしていたな。結局、精神的な負荷を抑えてだましだましやっていたようなもの。

就職も何とかできたし、入社1年目は激動だったけど何とか乗り越えて2年目(2002年)に番外地に移転して今まで何とかやってきたのが通用しなくなってきた。部署内の人間関係にも悩んでいたりしたのもあったしとにかく忙しくて残業だらけだったのもあった。もう2002年の終わりくらいには不眠が出始めていて内科で弱い睡眠薬をもらうようになっていて、それがさらに悪化したのが2003年の初夏。

気分の落ち込みも相当だったし何より不眠が酷かった。普段でも5時間寝れば上出来という日あったりしたのにそれが一番酷いときは1時間くらいウトウトしかできなくて次の日会社に行っても眠気が無いとか明らかにおかしくなってきていた。疲れが溜まってきてやばいと思っていながらも体が動く。たださすがにネットでストレスバランスを見ても危ない結果だった。

それで会社の人にも背中を後押しされるようにクリニックに通い始めたというわけ。通わざる得ないと思った時はむしろ気持ち的には楽だったな。もう苦しい夜とも開放されるだろうしようやく本格的な治療ができる。ただこのタイミングで通院するようになったのはちょっとズルいやり方だったかな?周りの人には会社での過労が原因ということにしていたし事実そうなってもおかしくないほど忙しかったのだから。結局、あれから20年近い今も完全には治ることなく今も薬を飲み続けているおかげで症状も緩和されて他の人並みには生活できている。

ただ、自分は高校生の時にPTSDとかひどいうつ状態というかうつ病に極度の対人恐怖症とか発症しなかったから進学もできたし、就職もできた。そしてハードランディングな形になったけど生活基盤ができてから治療することができた。でもそうでない人は就職・進学とかも困難になるとか完全に人生を壊されるようなもの。今も薬が必要なのもあるけど、そういう立ち直れない人の気持もわかるのだからそれを含めて戦いたいと思う。

暗い話ばかりだし、今日はちょっと明るい列車?ということで1996年、急行東海を追いかけていた時に一緒に撮影した伊豆急のアルファ・リゾート21。この頃は臨時列車ながら土休日かにリゾート踊り子として東海道線を走っていたな。

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