自分の道を突き進め ~学校に背を向けても~
2021年5月9日 流星の彼方(回想録)
高校2年が終わり受験シーズンとなる3年は1年の時に引き離して欲しいとお願いした人と同じになるし時折、向こうは遊び半分でいじってきたりするけど当時の自分からすれば話しかけられたりするのがやっぱり怖いし緊張してしまう。そして気持ちが不安定だから落ち込みやすかった。
さらに、2年の年末から勉強中とか授業中に胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりして気持ちが不安定になることが出てきて勉強時間とか内容はコンディション次第で思うようにできなくて歯がゆい思いをずっとしてきた。
そんなことがある上に相変わらずクラスでは馴染めないし友だちとも段々とギクシャクが出てきたりして、結局周りの人に心を開けば傷つくだけだしこれ以上傷つけば壊れてしまいそうだから一人でいることが多かった。自分にも問題があったし周りの環境に適応できなかったのもあるし、やっぱり傷ついた理由を考えれば学校に対して怒りの感情も起きてくるしそんな時に出た結論が学校を捨てること。
そんな決意をするときに聞いていたのが鈴木彩子のアルバム「愛があるなら」から「僕はここにいるよ」
https://www.youtube.com/watch?v=4nnQfqer290
17・18歳くらいだったから反発心もあったし鈴木彩子さんの曲の影響もあっただろうな。
もう、学校を捨てると決めてからの割り切り方はキッパリしていたな。授業なんて一部を除いて内職。それもだんだんエスカレートして最前列で目の前が教団だろうと教科書を開く素振りもまったくしないで予備校のテキストをおもむろに広げるなんて当たり前で友人曰く「邪道」。学校行事は何それ美味しいのということで?。大抵欠席。周りともあまり関わらなかったし、中退して大検とるならという感じで通っていたようなもの。
まぁ推薦入試を受けられないほどひどい成績だったから、学校の言う内申を確保してなんてことも日記を書く前だから2年の1学期くらいにはもう無理とわかっていて一般受験以外の選択肢が無かった=一般受験組にできることは限られているというのと、予備校の先生が一般受験なら内申なんて全く見ないと言っていたのが拍車をかけていたか。
それでも、先生に怒られたことはあまりなかったな。授業だって全く話を聞いてないし卒業遠足なんて、ふざけて予備校の日だから時間になったら一人で舞浜から電車で帰っていいですか?なんて舐めたこと聞いた上に、ダメと言われた瞬間に欠席を宣言するとか。やっていたのに。こんなこと正しいとか正しくないなんてこと、当時の自分もさすがに正しいかどうか考えた結論は今年1年限りでもう二度とやらないと誓うこと。
昔の話をこうやって単体で書くとどうしても話が重たくなるしということで、ちょっと和らげる意味でもその当時撮影していた写真でも。この頃の話はあまり話したくないし話さない中で抵抗感が無い数少ないエピソードといえば格上げ前の急行東海を夢中で撮影してた頃。というか、よく高校生の小遣いでフィルム+現像で2000円は超えるリバーサルしかもコダクロームを何本も使えたな。
さらに、2年の年末から勉強中とか授業中に胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりして気持ちが不安定になることが出てきて勉強時間とか内容はコンディション次第で思うようにできなくて歯がゆい思いをずっとしてきた。
そんなことがある上に相変わらずクラスでは馴染めないし友だちとも段々とギクシャクが出てきたりして、結局周りの人に心を開けば傷つくだけだしこれ以上傷つけば壊れてしまいそうだから一人でいることが多かった。自分にも問題があったし周りの環境に適応できなかったのもあるし、やっぱり傷ついた理由を考えれば学校に対して怒りの感情も起きてくるしそんな時に出た結論が学校を捨てること。
そんな決意をするときに聞いていたのが鈴木彩子のアルバム「愛があるなら」から「僕はここにいるよ」
https://www.youtube.com/watch?v=4nnQfqer290
17・18歳くらいだったから反発心もあったし鈴木彩子さんの曲の影響もあっただろうな。
もう、学校を捨てると決めてからの割り切り方はキッパリしていたな。授業なんて一部を除いて内職。それもだんだんエスカレートして最前列で目の前が教団だろうと教科書を開く素振りもまったくしないで予備校のテキストをおもむろに広げるなんて当たり前で友人曰く「邪道」。学校行事は何それ美味しいのということで?。大抵欠席。周りともあまり関わらなかったし、中退して大検とるならという感じで通っていたようなもの。
まぁ推薦入試を受けられないほどひどい成績だったから、学校の言う内申を確保してなんてことも日記を書く前だから2年の1学期くらいにはもう無理とわかっていて一般受験以外の選択肢が無かった=一般受験組にできることは限られているというのと、予備校の先生が一般受験なら内申なんて全く見ないと言っていたのが拍車をかけていたか。
それでも、先生に怒られたことはあまりなかったな。授業だって全く話を聞いてないし卒業遠足なんて、ふざけて予備校の日だから時間になったら一人で舞浜から電車で帰っていいですか?なんて舐めたこと聞いた上に、ダメと言われた瞬間に欠席を宣言するとか。やっていたのに。こんなこと正しいとか正しくないなんてこと、当時の自分もさすがに正しいかどうか考えた結論は今年1年限りでもう二度とやらないと誓うこと。
昔の話をこうやって単体で書くとどうしても話が重たくなるしということで、ちょっと和らげる意味でもその当時撮影していた写真でも。この頃の話はあまり話したくないし話さない中で抵抗感が無い数少ないエピソードといえば格上げ前の急行東海を夢中で撮影してた頃。というか、よく高校生の小遣いでフィルム+現像で2000円は超えるリバーサルしかもコダクロームを何本も使えたな。
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