My Accord Story 1991−2005
2005年2月9日 アコードホンダ E−CB1 アコードEX 1991年式
自分と出会いは14年前そう、自分が小学校を卒業するときのことだ
った。当時、親が新しい車を買うというので何回かホンダのディーラ
ーに連れて行って貰ったこともあって自分の記憶ではシビック・アス
コットの中で迷っていて自分はどれでもよかったけど来たのはアコード
。当時、子どもながらフロント周りが鋭くなっているスタイルがとても
気に入っていて何かと乗せてもらっていたな。
自分がアコードを運転するようになるというのを意識したのは高校生
の時。レパード乗りの友だちはその頃から絶対レパードに乗ると決め
ている中で自分も、大学に入って免許を取ったらちょうどその頃に
親のアコードが買い換え時になるから払い下げて貰うことを考えていな
がら大学時代に突入。
大学時代は自分とアコードの間の距離が最も遠かった時かもしれない。
親との関係の薄さもピークだったし免許も費用とか時間の問題から
取ったのも就職活動が終わってからと遅かったしその頃はアコードに
乗るのも年に数回しか無かったくらいで高校の時に乗りたいと思って
いたのも忘れていたりしながらも、大学卒業の夏ついにアコードを
始めて運転することに。
始めて運転したときの感想は、とにかくクラッチが言うことを聞か
ない。教習所時代は友だちと情報交換でクラッチの癖がひどい車と教
官との相性が悪い車は避けていたくらいだしあとは、教習車マーク2
と比べてエンジンの吹け上がりもパワーも一回り以上上なのと意外に
取り回しが悪いこと。これは後々自分の車になってから痛感するよう
に。それ以来、親と休みが重なったときにちょっと運転するように。
アコードを自分の車として認識したのは社会人1年目が終わろうとし
ている時のこと。会社に入ってからは一人暮らしか自分の車のどち
らかを考えていたけど一人暮らしに傾きかけたときに会社で大規模な
リストラがあって上司や先輩達が次々といなくなっていくなかで会社も
番外地に移転が決まり、一人暮らしの必要が消え車と言っても自分も
半年間の出向が終わったら会社に戻らないで辞めることも考えていた
からローンも組めないしというときに湧いて出てきた親の車の買い換え
がきっかけ。維持費なら払えると軽く考えて払い下げて貰うことにし
て自分専用の車になることに。
それから約3年間乗り続けたわけだけど、取り回しの悪さやパワーの
無さ、あとトラブルには泣かされつつもエンジンの吹け上がりの良さ
や室内やトランクの広さなど自分にとっては使い勝手の面でも問題
なかったし、あとあちこちいじってきて楽しめたな。
あとは、ドライブ編。各年の中で最も印象に残っているドライブはと
言うと
2002年
6月8日(日記無し)・・・初めて首都高の都心環状線を走ったけど
こんなに怖いところだとは思わなかった。周りの車の迷惑になるよう
なゆっくりとした速度だったけど自分としては必死だったな。
6月30日(日記無し)・・・第三京浜を走るはずがサッカーW杯決勝
で通行止めで結果として初めて東名を走ることに。東名のすごさを
実感。
8月18日・・・コンベンションの帰りは台風の中前がよく見えない
くらいものすごい雨の中をゆっくりと帰ってきたけどこれほど前が
見えなかったことは後にもなかった。その頃の自分の腕で無事に帰って
これたことが奇跡に近いものが。
2003年
1月5日・・・お台場でデート。とにかく緊張しながら首都高を走って
遅いと笑われたな。そして一人になってから第三京浜では別人のよう
な走りに。この頃から相手や気分・状況に合わせた走りをする頃に
なったな。
8月17日・・・武蔵村山からナビを頼りに帰ったとき。道に迷ったり
しながらもなんとか八王子に辿り着いたときの安堵感は格別だった。
9月7・8日・・・家の旅行で日光へのロングドライブ。峠を走ったの
も数少ない経験だったしなによりもこれだけの距離をはしったのは
あまりないし楽しかった。
2004年
2月28日・・・尾久に行くだけのはずが気が付けば都内一周のロング
ドライブに大発展。最後は湘南まで走るロングランに。
5月15日・・・ひょんなことから、武蔵村山にいくことになって
帰りは朝日を浴びながら多摩の山中を抜けて帰ってきたけどあの時
ほど標識を頼りに適当に走ったことなかったな。
10月16日・・・房総へバーベキューに行ったとき。ひたすら走った
のと首都高の八重洲降車場に車を止めたりと変わったこと尽くしだった
な。
そんなこんなで、アコードとの3年間を振り返ってきたけど、やっぱり
最後は笑顔で別れたかったな。こんなことで死なせてしまってごめん
よ。お前とは色々なことあったよな。最後までトラブルばかりだけど
その度にさまざまな知識や経験を吸収してきたし、事故処理の対応や、
わずかな甘えや判断ミスが重大な結末を迎えることを教えたかったの
か?
最後に、3年間約30000キロという時間と距離を一緒に移動できて
とても楽しかったよ。お前は最初であり最高の車だよ。ずっと忘れな
いから、今まで長い間ありがとう。
自分と出会いは14年前そう、自分が小学校を卒業するときのことだ
った。当時、親が新しい車を買うというので何回かホンダのディーラ
ーに連れて行って貰ったこともあって自分の記憶ではシビック・アス
コットの中で迷っていて自分はどれでもよかったけど来たのはアコード
。当時、子どもながらフロント周りが鋭くなっているスタイルがとても
気に入っていて何かと乗せてもらっていたな。
自分がアコードを運転するようになるというのを意識したのは高校生
の時。レパード乗りの友だちはその頃から絶対レパードに乗ると決め
ている中で自分も、大学に入って免許を取ったらちょうどその頃に
親のアコードが買い換え時になるから払い下げて貰うことを考えていな
がら大学時代に突入。
大学時代は自分とアコードの間の距離が最も遠かった時かもしれない。
親との関係の薄さもピークだったし免許も費用とか時間の問題から
取ったのも就職活動が終わってからと遅かったしその頃はアコードに
乗るのも年に数回しか無かったくらいで高校の時に乗りたいと思って
いたのも忘れていたりしながらも、大学卒業の夏ついにアコードを
始めて運転することに。
始めて運転したときの感想は、とにかくクラッチが言うことを聞か
ない。教習所時代は友だちと情報交換でクラッチの癖がひどい車と教
官との相性が悪い車は避けていたくらいだしあとは、教習車マーク2
と比べてエンジンの吹け上がりもパワーも一回り以上上なのと意外に
取り回しが悪いこと。これは後々自分の車になってから痛感するよう
に。それ以来、親と休みが重なったときにちょっと運転するように。
アコードを自分の車として認識したのは社会人1年目が終わろうとし
ている時のこと。会社に入ってからは一人暮らしか自分の車のどち
らかを考えていたけど一人暮らしに傾きかけたときに会社で大規模な
リストラがあって上司や先輩達が次々といなくなっていくなかで会社も
番外地に移転が決まり、一人暮らしの必要が消え車と言っても自分も
半年間の出向が終わったら会社に戻らないで辞めることも考えていた
からローンも組めないしというときに湧いて出てきた親の車の買い換え
がきっかけ。維持費なら払えると軽く考えて払い下げて貰うことにし
て自分専用の車になることに。
それから約3年間乗り続けたわけだけど、取り回しの悪さやパワーの
無さ、あとトラブルには泣かされつつもエンジンの吹け上がりの良さ
や室内やトランクの広さなど自分にとっては使い勝手の面でも問題
なかったし、あとあちこちいじってきて楽しめたな。
あとは、ドライブ編。各年の中で最も印象に残っているドライブはと
言うと
2002年
6月8日(日記無し)・・・初めて首都高の都心環状線を走ったけど
こんなに怖いところだとは思わなかった。周りの車の迷惑になるよう
なゆっくりとした速度だったけど自分としては必死だったな。
6月30日(日記無し)・・・第三京浜を走るはずがサッカーW杯決勝
で通行止めで結果として初めて東名を走ることに。東名のすごさを
実感。
8月18日・・・コンベンションの帰りは台風の中前がよく見えない
くらいものすごい雨の中をゆっくりと帰ってきたけどこれほど前が
見えなかったことは後にもなかった。その頃の自分の腕で無事に帰って
これたことが奇跡に近いものが。
2003年
1月5日・・・お台場でデート。とにかく緊張しながら首都高を走って
遅いと笑われたな。そして一人になってから第三京浜では別人のよう
な走りに。この頃から相手や気分・状況に合わせた走りをする頃に
なったな。
8月17日・・・武蔵村山からナビを頼りに帰ったとき。道に迷ったり
しながらもなんとか八王子に辿り着いたときの安堵感は格別だった。
9月7・8日・・・家の旅行で日光へのロングドライブ。峠を走ったの
も数少ない経験だったしなによりもこれだけの距離をはしったのは
あまりないし楽しかった。
2004年
2月28日・・・尾久に行くだけのはずが気が付けば都内一周のロング
ドライブに大発展。最後は湘南まで走るロングランに。
5月15日・・・ひょんなことから、武蔵村山にいくことになって
帰りは朝日を浴びながら多摩の山中を抜けて帰ってきたけどあの時
ほど標識を頼りに適当に走ったことなかったな。
10月16日・・・房総へバーベキューに行ったとき。ひたすら走った
のと首都高の八重洲降車場に車を止めたりと変わったこと尽くしだった
な。
そんなこんなで、アコードとの3年間を振り返ってきたけど、やっぱり
最後は笑顔で別れたかったな。こんなことで死なせてしまってごめん
よ。お前とは色々なことあったよな。最後までトラブルばかりだけど
その度にさまざまな知識や経験を吸収してきたし、事故処理の対応や、
わずかな甘えや判断ミスが重大な結末を迎えることを教えたかったの
か?
最後に、3年間約30000キロという時間と距離を一緒に移動できて
とても楽しかったよ。お前は最初であり最高の車だよ。ずっと忘れな
いから、今まで長い間ありがとう。
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