いつものように仕事も終わり、今日は色々な理由で足立方向周りになるのはいいとして会社を出る前にタブレットのチェック。LINEでバカトークが入っているならともかくとしていつも見ている小川泰平さんのyoutubeの動画の通知が。もうそれを見て声を失ってしまいましたよ。その動画がこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=AEdYl3xdxjs&t=1s

この週末の旭川取材をされていてその時に偶然にも中学生の少女が行方不明になっているという事を知り週末に動画にしていてその続報ですが残念な結果になってしまったという一報が。

もうこの後の帰り道は会社の人を乗ってけている間も話は上の空状態。その後に緊急でLive配信
https://www.youtube.com/watch?v=8QMrneQuStI&t=2280s
もあったけどさすがに車の中で音声だけでも聞けないことはないがさすがに事故りそうな感じもして断念。だから少しでも早く帰りたくて首都高を飛ばして(といっても前がつかえて大して出てなかったけど)帰宅。

それにしても、一体何の皮肉だろう。この真冬に少女が行方不明になって残念な結果になってしまったこと、しかも亡くなられた少女が中学2年生ということ。どうしても1年前2021年の冬と重なって見えてしまう。

何があったのかわからない、どういう経緯でこうなったかもわからない。でも、やはり未来ある若い命が失われる悲しみには変わりない。もう言葉が出てこないので締めくくりますが最後に、亡くなられた少女のご冥福をお祈りします。


冷たい雨
朝から雨の今日というか、冬の冷たい雨が降るとどうしても昔を思い出してしまうそう、あの絶望の冬を。

その頃は、自転車通学だったのが雨になると電車・バスになってしまう。そうなると決まりきったルートしか選択肢がなかったから自転車のときのような自由さがなくなってしまうし、ただでさえ雨は憂鬱になりやすいからなおさらだったのだろうな。

そんな晴れた日の行先の一つが久里浜工場裏の無架線地帯。当時の写真も残っていて解体が始まるとする都営5000系の1コマ。この頃は1000形とともに解体されていました。
この前のクローズアップ現代+に続いて今度はTBS(北海道では別タイトルの番組らしかったけど)の報道特集で旭川いじめ事件ということで特集するということでもちろん見ましたよ。

ただこの前は一人でこらえながら見ていたけど今回はこの事件を通じて知り合った人たちと一緒に見ながらチャットしていたからかなり気持ち的には楽だった。内容はわかっていてもやっぱり一人で見るには結構きつかったのも事実。

ここからはちょっとお得意の書き殴りに入らせてもらうとして、結構な数の記事を書いているこのブログの中で唯一実名で叩かせてもらったサイコパスNは論外として今回見て一番怒りを感じたのは最後の方に出てきた当時の校長の金子圭一、何なんだこの嘘つきは。

報道特集で自宅にコメントを求めに記者が来た時に「いじめが無かったとは一言も言っていない」とかふざけた事言いやがったけど、だったらメディア旭川の記事に対して全力で否定するコメントを書いたプリントを全校生徒に配布したのは何なんだ?記者が来たから過去の発言や態度を翻すのか?そういえば小川泰平さんがインターホン越しにコメントを求めた時の動画もあるけど
https://www.youtube.com/watch?v=DngjICshlMo 
一体この時から完全他人事の発言もあるけどどう弁明するつもりなんですかね。全く聞いて呆れるというよりも、何か喋れば人の神経逆なでするから黙っていたほうが精神衛生的にはいいかもしれないけど。

令和タケちゃんが天下り先で演説したのがきっかけで隠蔽して逃げきったご褒美とばかりに天下り先でのうのうとするプランが自ら退職したのか退職させられたのか知らんけど砕けたのはまさに自業自得。

他にも全国各地で逃げきったと思って安心している輩は覚悟したほうがいいぞ。ネットの時代、バレたらこうなるんだから。
社会に貢献する方法として
今から丁度2年位前と言えば腎臓移植に向けて検査入院をしていた頃。実はその頃から考えているのは何か社会のために還元することはないかということ。

腎臓を移植して移植して今に至るけど今の自分はドナーとなってくれた親もそうだけどそれ以外にも医療と福祉によって支えられて生きているというのは否定できない。自分の年収を遥かに超える医療費で生命と安定した生活を維持できているし福祉制度のおかげで経済的にも今まで以上に恵れている。

ただ、その一方で生物として当たり前の子孫を残す(子どもを育てる)役割も果たしていないしただ働いていていて好きなことをしているだけでいいのかな?と思っているのが正直な所。

だからこそ、移植する前から医療や福祉の恩恵を受けているのだからその分、何か社会のために貢献したい。そう思い自分のパソコンを酷使するだけだけどFolding@homeにももう1年半以上参加しているけどそれ以上にまだやれることは無いかと思ってしまう。そんなことを模索している中で起きて自分の感情を激しく揺さぶったのが旭川の事件。

もしかしたら、いじめという社会問題に対して何かしらの動きをするのならそれは自分が考えていた社会貢献したいということに対するアンサーであり己の能力を最も活かせる分野かもしれない。この問題が終わったらその時に次を考えればいいのだから今は昔の自分が持っていたひたむきな姿勢を取り戻したい。
進まないデジタライズ
7月から着工したアナログフィルム時代の写真のデジタル化。合間をみて少しはやってはいるけど、やっぱり進まない。

やる気とか色々あるのは言うまでも無いけどこの作業をやっていると撮影した車両のことよりも撮影していたときのことを思い出してしまう。特に高校時代に撮影した写真は急行東海が格上げになる直前あたりはまだいいけどそれ以外は本当にその時の自分=いじめがあった頃や大学受験でもがき苦しんでいた頃の記憶は避けて通れなくて苦しい気持ちに引き戻されるしそういう日は寝るときにはまたフラッシュバックも起こしてしまいかねない。

楽な気持ちでこの頃の写真を見られるのはいつになるのだろう?
クローズアップ現代+ 旭川女子中学生凍死事件~それでも「いじめはない」というのか~ いよいよ、テレビでもそ「こまで言って委員会」などで取り上げていたのが大々的にNHKしかも地上波でということで見ないわけにはいかないといって見たけど、まさかあのいじめの内容を綴ったLINEのトークを地上波でそのまま使うとは思わなかった。さすがに一部ナレーションをカットせざる得なかったのはともかくとして。

お母様の発せられる言葉から文章で読むのとはぜんぜん違う印象をうけ改めて悲しみを感じたのは言うまでもないしやっぱり聞いていてこみ上げてくるものがある。

それよりも、一番の感想はと言うと酷かったというかありえない。言うまでもなく番組スタッフとか構成とかではなくて学校のふざけた人たちのこと。ここからはいつものように見苦しい文章かもしれないですが書き殴らないことには収まらないですから。

これだけ書いてきたブログの中で唯一実名で批判された中山岳。焦燥している母親の「娘の記憶を消してください」の言葉に対して「頭おかしくなっちゃったんですか? 病院に行ったほうがいいですよ」の言葉。おかげで頭の中でサイコパス中山の称号が爆誕しましたよ。これが単なるサイコパスというたけでもまだしも学校の教頭やっていて、今回でも匠に隠蔽しようとしているあたり他にも余罪があるのではないかと思ってしまいますね。まぁだからこんな状況でも辞めることも具合が悪くなって休むこともないのも無理はないか。

一部では事件の風化を狙っているみたいだけど、それももう無理な話。だからこそ正面から向かい合って早く解決に向かってほしいものです。
旅行中日 ~祈りの地へ~
旅行中日 ~祈りの地へ~
旅行中日 ~祈りの地へ~
旭川駅に戻ってから一旦お昼を食べ、一休みしてからいよいよ永山中央公園にへ。ここからもバス。文春オンラインの記事であえてバス1本では行けない場所に引っ越したということを自分も身を持って体験したかったということもあってバスにしたけど確かにそれはわかるような気がしました。乗り継ぎが悪いと結構時間がかかる。

バスに乗り永山という名前が出始めるとサロベツの時以上にドンドン胸が高鳴っていく。似たような名前のバス停が続くのもそれに拍車をかけているような。バスを降りていきなり聞こえてきたのは当時は候補者、今で言う今津新市長の街宣車から流れる声。この場所についていきなりというのはなにかの暗示かもしれない。さすがにドキドキが止まらないしまずは気分を落ち着けるためにも周囲を歩いて1周。そして覚悟を決めていよいよ中に入る。はっきり言えば単に広い公園で色々な年代の人がそれぞれの過ごし方を知ている。午前中のウッペツ川の時以上にこんな場所でこんな悲劇が起きたのなんて信じられないくらいの日常が繰り広げられている。

いったい爽彩さんは家を飛び出てから何を感じ、何に絶望しどうやってこの場所に辿り着きどんな光景を見ながら永遠の眠りについたのだろうか?公園の入口に入ってまずは、爽彩さんが発見されたという場所で小さく手を合わせ、いよいよ献花台となっている丘へ。この丘も子どもたちが遊ぶ場所。その場所の一角に献花場所があってネットで見た爽彩さんの誕生日の時よりもさらに多くの花が供えられている。これは、一部の人からの動画などで旭川は~という発言があったけどぜんぜん違う。自分みたいに遠方から献花に来る人はいるかもしれないけどこれだけの数の花が絶えること無く供えられているというのはそれだけ地元、旭川の人が暖かい気持ちでいる証。死んだら次の日にはみんな自分のこと忘れていると言っていけどそれは間違いだったということに天国から見守っていて気がついていて欲しい。

自分と事情があって行かれない人から預かった気持ちとともに献花してきました。安らかな眠りにつくことと、もうこの場所がこんな悲劇が起きないようにそして、儚い願いかもしれないけどこれが最後のいじめの犠牲者であることを願って。

丘から降りて近くのベンチに腰掛けてから「長い放課後」を聞き、日が沈みはじめ子どもたちが減ってきたのを確かめて再び丘の上に。そして日が傾いてきたしここで撮影。これは内心行く前から考えてきた構図なんだけど。やっぱり撮影していて何かこみ上げてきた。こうしてこの場所に来て祈りを捧げたからにはできることはやっていきたい。あの頃に経験してきたことがもはや過去の遺物として不要になるまで、そして自分が納得するまで。

今回の旅の一番の目的地にきて祈りを捧げられてやっと4月からいつかやらなければと思っていたことが実行できた。でも一度来たら終わりではない。またここには着たい。決して風化させないためにも。
旅行中日 ~この目に悲惨な現場を焼き付けに~
旅行中日 ~この目に悲惨な現場を焼き付けに~
旅行中日 ~この目に悲惨な現場を焼き付けに~
鉄道趣味がこのブログのメインということを一応意識はしているので、あえて書かなかったけど9月の3連休を使って北海道に旅行に行っていた中で中日にあたる9月19日の特急サロベツ以降の話です。

特急サロベツが名寄に着く頃にはすっかり目が冷めて(実は寝不足もあって結構寝ていました)、そこからは線路改良がされていることもあって速度レンジが上がる区間へ。列車の速度も一回り上がるとともに段々と胸が高まっていく。いよいよ旭川の地に足を踏み入れる、自分もこの目にあの光景を焼き付けることになる。今回の旅行の本当の目的地はそう旭川、昨日の稚内も単なる前フリというか旅らしくするための演出にすぎないのかもしれない。

そんな気分の高まりを感じつつ旭川に到着。さっそくホテルに荷物を預けて出発。レンタカーという手もあったけどあえてバスで移動。そんなバスでの移動を手助けしてくれるのがバスキタ!旭川というアプリ。系統数が多いけど各系統の本数はそんなに多くない旭川で近くまで歩いて別系統とかそういうこともわかりやすく調べられるこのアプリには結構お世話になりました。

旭川の駅から最初に目指すのは駅から見て北方向、バス停の名前にもなっているし上野~盛岡を走る寝台特急の名前にもなったあの中学校。ついたらもうカメラを構えて臨戦態勢。さすがに日曜日だけに例のあの教頭がアホ面を下げているわけもなく、閑散としているから遠慮なく気になった部分を撮影。続いて、悲惨ないじめの舞台にもなった北光ふれあいの森公園へ。住宅街が広がるこの道を一体、彼女は何を感じながら歩いたのだろう?そしてなぜここが絶望の場所になってしまったのだろう。

北光ふれあいの森公園に着いて中を一通り歩いたけどはっきり言ってあんな残酷ないじめが起きる場所だとは思えないしアスレチックでは小学生が楽しそうに遊んでいるありふれた日常が繰り広げられるそんな場所。爽彩さんはこのどこかでベンチに腰掛けながら絵を描いていたのだろうかと考えながら写真を撮っていた。もちろん隣の小学校につながる通路というか垣根の切れ目も撮ったけどいったいここで何人もの人たちに連れられて酷いことをされにいくために歩いた道だとは全く思えないし、何でこんなことをしたのだろうと思ってしまう。

さらに隣を流れるウッペツ川もここに来る途中とその後も合わせて隣の橋まで川沿いを歩いてみたけど遠くに半面山が見えてこんな悲しい事件が起きる場所だとは全く思えないほどの景色のいいところ。一体何が一人の少女にこんな酷い仕打ちをしなければならかったのだろう。そして、救いの手は伸びることはなかったのだろうか?

すっかり、草が伸び切って様子が違うとはいえこんな土手を転げ落ちるように半ば煽られてと言うか追い込まれて川に飛び込まざる得なくなり救いを求める一方で命を絶とうとしていたなんて想像もつかない。近くに家などもあるから誰かが見ていてもおかしくないし柵を乗り越え無理に土手を降りなければ水面に辿り着くまでに怪我をする可能性もある。そんな場所でなぜ悲劇が起き、取り返しのつかないことになっていったのかわからない。でもわからないでは済まされない。徹底的に解明しなければいけないと思う。

歩いた後は近くのイオンまで歩いて最北端ののポポンデッタ?で空振りだったのは内緒(笑)。再びバスに乗り旭川駅へ。今日の前半はこの目で悲惨ないじめが起きた現場をこの目に焼き付けておきたかった。旭川のいじめ事件を見守る一人としてだけでなく2021年の今、再びいじめ問題に立ち向かうためにも。
2021年のセカンドバースデーを迎えて
自分にとって忘れることもできないセカンドバースデーにあたる10月14日というか15日。その時のことはこれを見てください。
https://25444.diarynote.jp/202105230108297931/

ここのブログは慢性的に更新が遅れているので今回だけは14日にあらかじめ原稿を書いておきました。

今年のこの日を迎えてまさか、この1年でここまで変わるとは思ってもなかった。過去と再び向き合い、いじめに対して許せないという気持ちを示すようになるとは思いもよりませんでした。そのきっかけになったのは言うまでも無く旭川の事件。次々にいろいろな情報が入ってきてどういう方向に向かうのか本当に気がかりですし全てが解決するまでは見届けたいです。

過去と再び向き合って当時とは違う視点から状況を把握することができたし、いじめが終わってからセカンドバースデーの記憶の空白域の記憶も今まで以上に思い出せるようになったそういう良いこともあった反面、高1の3学期のもう感情の麻痺が起きてきて、消えたいという気持ちが芽生えてきてそれが段々強くなっていく。もし先生が救いの手を差し伸べてくれなかったら、トドメを刺されるようなことがあったらもう生きていなかったかもしれないし、命こそ残ってもこうして何とか立ち直っていけたかどうかもわからない。そんなことを考えてからは今更ですが恐怖を感じています。逆を言えば偶然と奇跡の組み合わせで今があるようなものだし。

そんな自分のことの再発見もあったしネット上でですが知り合いも増えた。中には尊敬するような人もいるし何とか力になってあげたい人も。もちろんいじめに対して立ち向かう人もいます。そんな人たちとできることはしていきたい。微力でも何もしないのとは違う。もうこの現状を見ていられるわけでもないですし。

~Since1995・10・14~この日に生まれた奇跡の物語にとって2021年は旭川の爽彩さんに出会ったことで新しい章が幕を開けました。この物語はまだまだ終わらない。いや終わらせたくない。

今日の写真は、先月の北海道旅行の時に撮りました。この旅行の記事も2日目はサロベツに乗ったところだけで終わりにしていて旭川でのことはあえて書きませんでした。ただその時に献花してきたのでその中の1枚です。ちなみに今回の旅の本当の目的はこれでした。天国の爽彩さん、遅くなったけど約束通り献花に来ました。どうか、もうこんな悲劇を繰り返さないためにも立ち向かっている人たちのこと見守っていてください。






懐かしの横浜駅
ちょっとネタ切れ気味なこんな時に横浜駅の時刻表が出てきたところでこの頃を含めた横浜駅のことでも。

10/2日の書き込みに出てきた時刻表が95年だったかな?この頃の横浜駅といえば、まだ東急東横線は地上を走っていてヨドバシカメラは今の場所でいうと横浜駅前スマートフォン・携帯売場で今のヨドバシカメラがあったところには三越が。

そんな旧ヨドバシカメラの近くにと他にも横浜駅西口には3件くらいだったかな?帰りに12連快特が走るまでの間の時間調整をしていたゲームセンターがあったのは。当時はまだ格闘ゲームが流行っていて自分もバーチャファイター2や初代バーチャロンはまぁ対戦でも多少は勝てるほど(ただ弟の強さは半端なくてボコされていたけど)。

そして、西口で行くとなればゲーセン・ヨドバシ以外とあとは言うまでもなく今はドンキになってしまったalic 日進。CMはもちろんこれ
https://www.youtube.com/watch?v=s1ANHd5BSDw
大学に入って模型を中断する前はここと横須賀の武山で買ったのが半々くらいだったかな?それくら愛用していたお店。

そして京急はというとホームは島式一つのみ。そして今の中央改札の横には立ち食いそば屋それも濃い口のつゆに謎のかき揚げの京急共栄会のお店。ホームはにはコーヒースタンドが会ってここでコーヒー飲みながら電車を眺めていたこともあったな。そして駅の発車案内はブラウン管式のテレビが7つ一組になった独特のものでしかも7台全部動いているのは稀で大抵どれかが壊れている。当時としてはよくできていて急行も臨時停車に対応しきれていたほど。

京急の改札は当時は中央と浦賀寄りの西口京急連絡通路の2つ。この連絡通路の改札から中央通路につながる通路もあってここにも立ち食いそば屋があったらしいがさすがにここは記憶が無いな。

これが自分が通っていた頃の横浜駅。いつもどこかしらが工事していて日本のサグラダファミリアも大分変わってあと10年もしたら昔の間隔で歩けるのかな?
当時の時刻表からわかること 
今週末は横須賀。そんな横須賀で何と机の奥底に当時の平日版横浜駅ポケット時刻表を発見。これで前にパニック障害とそれを回避するためのアレコレをかいた記事
https://25444.diarynote.jp/202105291040024435/ につながったないし答え合わせができた。

まずは予備校が1限で終わったときに乗れなかった特急はWing1号の直後を走るから19:12発の特急三崎口行きと判明。そして19分の快特が主力の列車。逆にWingの先回りとなると19:05の急行で確定。

これで1限の答えはわかった。ただ後2日にちは日本史は中途半端な長さだし国語の日は古文+原文だったからちょっと自信がない。ただ少なくともA快特の後には特急が走らない20時台以降で確定。

あとは夕方横浜駅で時間調整していたのは快特が無い時間帯だと思っていたけどどうもそんな感じもないがもしかしたら16:58と17:09の特急のことだったのかな?あとは確か17:49発から快特が12連になるからこの時間まで時間調整していたのかもしれない。

ちょっと細かいことだけど一つの資料がみつかってよかった。でもこんな90年代からパニック障害を気にして通学していたと考えればちょっと悲しい話のような感じもする。
先週の旅行の余韻が残る今週末は旭川市長選挙の日。

もう、今回の選挙は言うまでもなく旭川のいじめ事件の今後を左右するかもしれないわけだしかなり気がかりだったわけでもう20時以降はネットに張り付いて結果を待ちわびてました。

出口調査で今津さんの優勢とは言われていたのにまずはいい出足でそして割と早い時間には当選確実の第一報が。そして22時前には確定。やりました。誰とは言わないけど途中で国政に出たいからと放り投げた先代からバントタッチと言っていたあの人には当選してもらいたくなかったですからね。さらに出口調査の結果が出て若い世代ほど今津さんに投票、しかもいじめ事件が候補者選び要素になった人の割合がすごいことに。

もうそこからはお祝いモード。そう、旭川の事件がきっかけで見るようになった犯罪ジャーナリストの小川泰平さんのyoutubeでは二人の候補に今回のいじめ事件についてインタビューをしていたのも見たけどもうそこで勝敗は見えていたような。そして、緊急ライブが始まってみんなで乾杯をしたいということで画面の前でだけど乾杯。自分は飲んだのはもちろん北海道にちなんでサッポロクラシック。今日ほど美味しいと感じたことなかった。

自分の地域でもない選挙、いや選挙そのものにこんなに関心をもったの初めて。これでいい方向に向かうと信じている。そんな新しい旭川の未来に乾杯。
4月の流星(自分)へ ~旅の途中で~
4月の流星(自分)へ ~旅の途中で~
今年の4月の流星というか自分へ。4月のある日に誓ったこと、果たしてきたよ。
4月の終わりくらいからずっと追いかけている旭川のいじめ事件でメディア旭川以外で継続して連載していてネットに火を着けた文春オンラインの内容をまとめた本が10日に発売。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4163914315/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

ただ、10日は本屋が軒並み20時に閉まる状況+遅番で1箇所だけいったら置いて無くて結局amazonで発注しました。それで記事の大半は文春オンラインの記事を元に再構成しているから深くは読んでないけど、母親の手記はもう何ていうかあまりにも読んでいて耐えられない。特に爽彩さんのいじめの後の描写は読んでいてこんな残酷な世界があっていいのかと思ってしまったし、今ままでは深い心の傷を受けてPTSDになっても適切な治療をすれば何とかなると思っていた自分の考えたの甘さを実感しました。

もし、気になる方がいた読んで欲しいしこの事件はこういう形で記録に残して置かなければならない。今そして未来のいじめの当事者にとっても。
天国のさーちゃんへ ~誕生日にむけての一言~
天国の爽彩さんへ。15回目の誕生日おめでとう。忌まわしい事件やその後のことがなければ今頃高校受験に向かって頑張っていた頃かな?本当に悔しい限りだし凄惨な事件の後も未来に向けて希望を失わなかった気持、強く心を揺さぶられました。

本当はこんな形で爽彩さんのこと知りたく無かった。そして事件を通じて知り合った人ともこんな形では出会いたくはなかったです。それから、あのウイルスのせいもあるけど献花に行くと言って実行できなくてごめんなさい。様々な人との出会いそして自分の過去と向き合うきっかけを作ってくれたのだから感謝してもしきれないです。本当は直接会ってお礼をいいたいぐらい。でも、自分が天国に行くなんて数十年先だしそれでは遅すぎですよね。

本当はもっとできることがあるのかもしれませんが、爽彩さんの身に起きたことについて真相解明して欲しいのと、もうこんなこと決して繰り返してはならないと思いましてささやかながら弁護団への募金をさせていただきました。これが今の自分にできること。これからも長い時間がかかると思いますからまた寄付させていただきます。どうかこの事件から得られる教訓が今もいじめで苦しむ人たちへの希望の光になりますように。

初代愛機となるPC9821V200の前にもう一台親戚の人にもらったのがあった。それはというとPC9801N、愛称98NOTEの最初のモデル。これは何に使ったかと言うとロータス1-2-3(エクセルのライバル商品だった)で表計算の練習とタイピングの練習とちょっとMS-DOSも触ったかな?そして一番使ったのはブラインドタッチを覚える練習用に。

ただこのパソコンのキーボードが今のキーボードと違ってキーが硬くて力が必要だったからそんなキーボードで感覚を覚えたもんだから今でも力強くキーを押す癖が着いてしまうのとキータッチ音がうるさくなってしまったというオチが。でもあれこれ練習用機としてはよく使ったな。
大学に入ってパソコンの世界に深入りしたのだけど、4年生の秋に初代自作マシンを組むまで使っていた愛機はと言うと何とNECのPC98。当時でももう時代遅れとか終わったと言われる98マシン。

大学にはいって最初の秋、親が使うからと自分も欲しかったからお金を出し合ってパソコンを買うことになったけど当時はまともに動くマシンなら軽く20万以上。それで親は後に言う98レガシーとも言うべき98専用のソフトを使っていたからマシンは98でないとダメということで買ったのがPC9821のV200の青札。そう98がメインストリームで出ていた最後の世代のVALUESTARで一つの完成系のスタイル。

とうわけで大学4年間のうちほとんどはこれがメインマシンに。親も使うのは特定のシーズンに限られていたから実質自分専用マシン。さすがに当時は4半期前のパソコンが世代遅れの型落ちと言われるくらいすごいスピードで進化していたから後にメモリーの増設に始まってCD-Rを着けてさらに大掛かりな改修ということでCPUもK-6Ⅲに交換したしGPUも交換した。おかげで何とか他の人のマシンに近づいたけど最後の方は特にHDD回りの遅さがきつかった。ちなみにその98も2002年に2代目自作機が稼働すると役目を終えることになるのとwifiなんてものもまだ出る前のことだから2000年にセカンドマシンになるとネットにつながれることもなくなりサブで使うくらいに。でも学生時代はリビングに置かれて23時のテレホーダイタイムになるとネットもあったし、教科書などを広げてパソコンでレポートを書くこともしたな。

今、成り行きとかが気になってしょうがない旭川のいじめ事件。文春オンライの最初の記事からもう3ヶ月も経ってネットでも静かになってきたのとこの事件を追いかけるyoutuberも櫛の歯が欠けたように次々と減っていく。

そんな中で今回の旭川の事件を追っていくうちにこれと対を成すといっても過言ではない北海道で起きたいじめによる自殺が2005年に滝川であってまさかとは思っていたけど当時の流星も看過できなくて書き殴っていました。それがこの記事です。
https://25444.diarynote.jp/200610060211080000/
当時のここの仕様から時事ニュースはリンクがyahooかどこかに飛べるようだったから見出しとか事件の概要は書いてなくてどの事件のことについて書いていた一瞬迷ったのですが本文の中から滝川の事件で間違いないなかった。これについては後日談で教職員の組合が調査に協力しないように指示を出していたとかありえないようなことが平然と行われている。当時の自分もやっぱりいじめが続いていた期間を考えれば救える時間はたっぷりあったし、まだ小学生だった被害者がもう完全に生きることを放棄して7通もの遺書を書くとか異常しぎる。

この事件を含めてこの年は相当酷かったようで当時の流星は85年とか94年のようになるのではないかと危惧していた。そして今連鎖的に自殺が起きるのを危惧して報道もしなくなったようで後から事件があったことを知ることが殆どになってきたけど、このブログでも2011年の大津を最後にずっと取り上げていなかったし自分もあまり深くは見ていなかったけどこれだけありえないような話が全国で起きているとは思ってもいなかったな。

旭川の件はおそらく民事裁判まで含めればあと5年は軽くかかりそうだけどせめてことの行く末は見守りたいし外野だけどできることがあればしていきたい。
模型から離れていた時
そういえば、このブログでも模型ネタはよく書いているけどそんな自分が模型から離れていたのが大学時代。忙しかったのとパソコンとかネットに興味が移ったとかあって本当に模型をいじらなくなっていた。

大学に入って最初のうちは多少は買うことはしていたけど編成丸ごととかはなくて既存の車両の増結ないし編成を揃える向けだけでアキバに行くようになってポチも少しは行ったけどあまり買ってなかった。

ただ持っている車両を売るとか処分するはしなくて放置状態だったのは救いで結局、会社に入るあたりで今の模型仲間に出会って再開しそして今では底なし沼w
中断当時は保有量数が150両くらいだったのが今はおそらく700両くらい(数えていない)+自動車多数に。

ただ再開したときはたった4年くらいのブランクなのにその間にマイクロエースが出てきたりTOMIXはHG車という概念ができていたり金型使い回し大好きなカトーが細かい作り分けを始めたり変化が大きくてとまどったな。

今回の写真は過去の再掲載になるけどカトーの681系サンダーバード。模型を再開して確か最初に編成単位で買った車がこれ。もう結構な年数経つんだな。
ラジオな頃その2 ~遠距離受信が必須に~
ラジオな頃(https://25444.diarynote.jp/202108050156335945/)の続編で今度は大学時代だから98年か99年くらいからは林原めぐみさんのラジオにくわえてまみ姉こと小森まなみさんのラジオもいくつか聞いていました。というかまみ姉のトークと曲にすごい癒やしをもらっていたな。

ただ、これが聞くのがまた大変で関東地区は文化放送の1番組を除けばAM KOBE(今のラジオ関西)だらけ。あと東北放送もあったと思ったけどこれはニッポン放送と周波数が近いから実用には耐えられないし、その文化放送も韓国の放送局と同じ周波数しかも向こうのほうが出力がデカイから混信で聞き取れないも日常茶飯事。さらに時間帯的にもリアルで聴くことが少なくて録音だからその場でアンテナの向きを調整とかもできないから何回聞けなかったことか。

そして、遠距離受信の常用もそうだけど文化放送で短命だったけど「君がそばにいれば」だと思ったけどこれが林原めぐみのTokyo Boogie Nightとかぶるとか勘弁してくれという事もあったけどこれは東海ラジオか静岡放送が30分早く放送されるし静岡放送は特に電波の入りは良くて普通に聞いていたこともあるほど。

さらに君がそばにいればで忘れられないのが、公開録音。2000年の3月にあって今は無くなってしまったけど、都庁の北展望台にあったスタジオSOLAであってその日は何と就職活動で新宿副都心に来ていて時間もちょっと厳しいかな?くらいだったけどうまく間に合ってもちろんスーツ姿で参加。リスナーが集まる公開録音はやっぱり感じが違う。さらに放送時には収録されないシーンとかみんなで歌う時とか一体感になるのがたまらない。本当にすごい偶然で行けてよかった。

今日の1枚はちょっと手持ちが無いから新宿つながりで強引だけど183系のかいじ。おそらく94年に撮影したものです。

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