ラジオな頃その1 ~番組のためには遠距離受信も~
2021年7月14日 流星の彼方(回想録)
高校・大学の頃というとまだネットがやっと普及し始めた頃。まぁそれはまた別の記事にするとして、今日はそのネットが普及する前の夜の過ごし方。
部屋の中にはテレビもなかったしということでラジオはよく聴いていたな。それもどちらかというとAM。前に書いたドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!もそうだけど他にもよく聞いていた番組はいくつかあってそのうちいくつかは時間の関係でリアルで聴けなくて録音で大学の行き帰りに聞いていたものもあった。
その中には聞きたいけど関東地区のラジオ局で放送されてなくて遠距離受信をしていたものもあった。だから前にもAMラジオが無くなるというのは遠距離受信という昔やっていたことが出来なくなるという惜しいこと。その時のブログが
https://25444.diarynote.jp/202106260016441571/
ということでその中からまずは林原めぐみのTokyo Boogie Night。日曜の夜の放送ということで週末の夜はこれで締めくくっていたな。そしてこの番組で言えば去年、入院中に眠れなかった時にも聴いたけどTBSラジオの場合は放送時間も当時と同じで番組構成も当時と大幅に変わらないことにビックリ。そしてTokyo Boogie Nightと対を成すのがHeartful Stationこれも聴いていたけどこれが1年くらいかなTBSで放送されていた時以外、電波が届くのがAM KOBE(今のラジオ関西)くらいしかなくてまいかい遠距離受信。
もうこれが曲者、アンテナの向きをうまく調整しないと雑音だらけで聴けないこともあるし深夜だから確実に録音していていざ聴く時になったら全く聞き取れなくてということもあったな。そんなわけで今日の写真は何とハガキが読まれたことで送られてきたリスナーカード。ただ読まれたと行っても年末のリクエスト特番でペンネームだけなんだけど(笑)。その時に入れたのはこの年で一番大きな出来事といえば受験だったからそれにちなんでということで
https://25444.diarynote.jp/202107110005166456/
やっぱりGoing History。これのおかげで合格まで突っ走ったのだから。
部屋の中にはテレビもなかったしということでラジオはよく聴いていたな。それもどちらかというとAM。前に書いたドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!もそうだけど他にもよく聞いていた番組はいくつかあってそのうちいくつかは時間の関係でリアルで聴けなくて録音で大学の行き帰りに聞いていたものもあった。
その中には聞きたいけど関東地区のラジオ局で放送されてなくて遠距離受信をしていたものもあった。だから前にもAMラジオが無くなるというのは遠距離受信という昔やっていたことが出来なくなるという惜しいこと。その時のブログが
https://25444.diarynote.jp/202106260016441571/
ということでその中からまずは林原めぐみのTokyo Boogie Night。日曜の夜の放送ということで週末の夜はこれで締めくくっていたな。そしてこの番組で言えば去年、入院中に眠れなかった時にも聴いたけどTBSラジオの場合は放送時間も当時と同じで番組構成も当時と大幅に変わらないことにビックリ。そしてTokyo Boogie Nightと対を成すのがHeartful Stationこれも聴いていたけどこれが1年くらいかなTBSで放送されていた時以外、電波が届くのがAM KOBE(今のラジオ関西)くらいしかなくてまいかい遠距離受信。
もうこれが曲者、アンテナの向きをうまく調整しないと雑音だらけで聴けないこともあるし深夜だから確実に録音していていざ聴く時になったら全く聞き取れなくてということもあったな。そんなわけで今日の写真は何とハガキが読まれたことで送られてきたリスナーカード。ただ読まれたと行っても年末のリクエスト特番でペンネームだけなんだけど(笑)。その時に入れたのはこの年で一番大きな出来事といえば受験だったからそれにちなんでということで
https://25444.diarynote.jp/202107110005166456/
やっぱりGoing History。これのおかげで合格まで突っ走ったのだから。
いじめの後遺症 ~クリニック通院前夜~
2021年7月13日 流星の彼方(回想録)
今回は、いじめの向こう側(後遺症)とクリニックに通い始めることになった2003年の6月へつながる話。
大学に入って環境が変わればあとは時が解決してくれると思っていた、でもそれは己が単に無知だっただけのこと。受験の時にもうパニック障害が起きていたし寝る時に気持ちが不安定になり過呼吸を起こして苦しくなるパニック発作は相変わらずどころかその後さらに色々な症状がでてくることに。
入学してすぐに対人恐怖症気味だし同世代の人とのコミュニティ能力なんて相当低かったから周りに溶け込めなかったし話していてもギクシャクが多かったと思う。さらには5月病のちょっとひどいのというより今の視点でいえばうつ状態にもなってそれが相談室でカウンセラーと話すことにした理由。さらには小学校・高校のいじめがフラッシュバックしてくるように。
寝る時のパニック発作もフラッシュバックが入ると相当辛かった。何時間も苦しくて眠れないし寝られても辛い気持ちで目が覚めるそして、それが何日も続いた時はもう限界というか自分が壊れると思ったしあの時必死に闘ったのは何のため?なんて思ったりもした。
そして、どんな状態なのかも調べた。ちょうど、阪神大震災や地下鉄サリン事件の後でトラウマとかに関する本はたくさんあったし大学の図書館は学科外でも一般教養で授業があるから専門書もある。トラウマとかPTSDとかその頃から概念はわかっていたけど自分には完全に当てはまるものではなかったし、親もそうだけど自分もまだ精神科とかへの偏見もあったから病院にも行かなかった。
そして眠れない時は隠し持っていた余った風邪薬で眠くなるものをつかって強引に眠ったこともった。そしてそんな状態だったから就職も氷河期ということもあったからできるかどうか続くかどうかなんて全く自信もあるわけもなかったし、今40歳を過ぎているけどこの年令まで自分が生きているということすらイメージできなかった。
といっても、大学とかバイト先の環境に恵まれたおかげで無事卒業もできたしそれなりに大学生活を楽しめたのは事実。うつ状態で学校に行けなかったのもダメ学生なフリして意図的にサボっているとかわざと遅れて行ったりしていたな。結局、精神的な負荷を抑えてだましだましやっていたようなもの。
就職も何とかできたし、入社1年目は激動だったけど何とか乗り越えて2年目(2002年)に番外地に移転して今まで何とかやってきたのが通用しなくなってきた。部署内の人間関係にも悩んでいたりしたのもあったしとにかく忙しくて残業だらけだったのもあった。もう2002年の終わりくらいには不眠が出始めていて内科で弱い睡眠薬をもらうようになっていて、それがさらに悪化したのが2003年の初夏。
気分の落ち込みも相当だったし何より不眠が酷かった。普段でも5時間寝れば上出来という日あったりしたのにそれが一番酷いときは1時間くらいウトウトしかできなくて次の日会社に行っても眠気が無いとか明らかにおかしくなってきていた。疲れが溜まってきてやばいと思っていながらも体が動く。たださすがにネットでストレスバランスを見ても危ない結果だった。
それで会社の人にも背中を後押しされるようにクリニックに通い始めたというわけ。通わざる得ないと思った時はむしろ気持ち的には楽だったな。もう苦しい夜とも開放されるだろうしようやく本格的な治療ができる。ただこのタイミングで通院するようになったのはちょっとズルいやり方だったかな?周りの人には会社での過労が原因ということにしていたし事実そうなってもおかしくないほど忙しかったのだから。結局、あれから20年近い今も完全には治ることなく今も薬を飲み続けているおかげで症状も緩和されて他の人並みには生活できている。
ただ、自分は高校生の時にPTSDとかひどいうつ状態というかうつ病に極度の対人恐怖症とか発症しなかったから進学もできたし、就職もできた。そしてハードランディングな形になったけど生活基盤ができてから治療することができた。でもそうでない人は就職・進学とかも困難になるとか完全に人生を壊されるようなもの。今も薬が必要なのもあるけど、そういう立ち直れない人の気持もわかるのだからそれを含めて戦いたいと思う。
暗い話ばかりだし、今日はちょっと明るい列車?ということで1996年、急行東海を追いかけていた時に一緒に撮影した伊豆急のアルファ・リゾート21。この頃は臨時列車ながら土休日かにリゾート踊り子として東海道線を走っていたな。
大学に入って環境が変わればあとは時が解決してくれると思っていた、でもそれは己が単に無知だっただけのこと。受験の時にもうパニック障害が起きていたし寝る時に気持ちが不安定になり過呼吸を起こして苦しくなるパニック発作は相変わらずどころかその後さらに色々な症状がでてくることに。
入学してすぐに対人恐怖症気味だし同世代の人とのコミュニティ能力なんて相当低かったから周りに溶け込めなかったし話していてもギクシャクが多かったと思う。さらには5月病のちょっとひどいのというより今の視点でいえばうつ状態にもなってそれが相談室でカウンセラーと話すことにした理由。さらには小学校・高校のいじめがフラッシュバックしてくるように。
寝る時のパニック発作もフラッシュバックが入ると相当辛かった。何時間も苦しくて眠れないし寝られても辛い気持ちで目が覚めるそして、それが何日も続いた時はもう限界というか自分が壊れると思ったしあの時必死に闘ったのは何のため?なんて思ったりもした。
そして、どんな状態なのかも調べた。ちょうど、阪神大震災や地下鉄サリン事件の後でトラウマとかに関する本はたくさんあったし大学の図書館は学科外でも一般教養で授業があるから専門書もある。トラウマとかPTSDとかその頃から概念はわかっていたけど自分には完全に当てはまるものではなかったし、親もそうだけど自分もまだ精神科とかへの偏見もあったから病院にも行かなかった。
そして眠れない時は隠し持っていた余った風邪薬で眠くなるものをつかって強引に眠ったこともった。そしてそんな状態だったから就職も氷河期ということもあったからできるかどうか続くかどうかなんて全く自信もあるわけもなかったし、今40歳を過ぎているけどこの年令まで自分が生きているということすらイメージできなかった。
といっても、大学とかバイト先の環境に恵まれたおかげで無事卒業もできたしそれなりに大学生活を楽しめたのは事実。うつ状態で学校に行けなかったのもダメ学生なフリして意図的にサボっているとかわざと遅れて行ったりしていたな。結局、精神的な負荷を抑えてだましだましやっていたようなもの。
就職も何とかできたし、入社1年目は激動だったけど何とか乗り越えて2年目(2002年)に番外地に移転して今まで何とかやってきたのが通用しなくなってきた。部署内の人間関係にも悩んでいたりしたのもあったしとにかく忙しくて残業だらけだったのもあった。もう2002年の終わりくらいには不眠が出始めていて内科で弱い睡眠薬をもらうようになっていて、それがさらに悪化したのが2003年の初夏。
気分の落ち込みも相当だったし何より不眠が酷かった。普段でも5時間寝れば上出来という日あったりしたのにそれが一番酷いときは1時間くらいウトウトしかできなくて次の日会社に行っても眠気が無いとか明らかにおかしくなってきていた。疲れが溜まってきてやばいと思っていながらも体が動く。たださすがにネットでストレスバランスを見ても危ない結果だった。
それで会社の人にも背中を後押しされるようにクリニックに通い始めたというわけ。通わざる得ないと思った時はむしろ気持ち的には楽だったな。もう苦しい夜とも開放されるだろうしようやく本格的な治療ができる。ただこのタイミングで通院するようになったのはちょっとズルいやり方だったかな?周りの人には会社での過労が原因ということにしていたし事実そうなってもおかしくないほど忙しかったのだから。結局、あれから20年近い今も完全には治ることなく今も薬を飲み続けているおかげで症状も緩和されて他の人並みには生活できている。
ただ、自分は高校生の時にPTSDとかひどいうつ状態というかうつ病に極度の対人恐怖症とか発症しなかったから進学もできたし、就職もできた。そしてハードランディングな形になったけど生活基盤ができてから治療することができた。でもそうでない人は就職・進学とかも困難になるとか完全に人生を壊されるようなもの。今も薬が必要なのもあるけど、そういう立ち直れない人の気持もわかるのだからそれを含めて戦いたいと思う。
暗い話ばかりだし、今日はちょっと明るい列車?ということで1996年、急行東海を追いかけていた時に一緒に撮影した伊豆急のアルファ・リゾート21。この頃は臨時列車ながら土休日かにリゾート踊り子として東海道線を走っていたな。
優しい復讐~トラウマを武器として~
2021年7月10日 流星の彼方(回想録)
4月に書いたブログ https://25444.diarynote.jp/202104240055562367/
の中で
-過去の自分が求めていた誰かを守る強さと優しさを追い求めること。そして胸の痛みはその武器として使うこと-
この胸の痛みを武器として使うということになった流れです。
https://25444.diarynote.jp/202106280058438924/ で当時毎週欠かさず聞いていたラジオ、ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!にまつわることでこの時書かなかった話になるんだけど、これは高3の秋だからまさに不調のど真ん中で一番苦しかった時のこと。
とある、リスナーが酷いいじめで苦しんでいる電話のやり取りで学校・家どちらも安全な場所も無く、さすがのドリアンさんも手詰まりで番組のエンディングでリスナーたちにお手紙ちょうだいと言っていた。その時、自分以外の誰かも手紙を書くかもしれないけど、それでも自分なりに傷つき続けたことがあるからこそわかる気持ちで今、消えてもおかしくない命を守りたい。例え直接解決に導けることは書けなくても刹那の安らぎになってくれれば。そしてhttps://25444.diarynote.jp/202106280026471837/で書いた現存しないミニコミュニティに誘った。
そして1ヶ月ちょっとの後返事が来たし、そのコミュニティでも声を聴くことができた。その時は嬉しかったし何よりも自分の心の傷(トラウマ)が誰かの為になったことをちょっと誇らしく思った。これが胸の痛みを武器として使うことになった原点。
そして時は流れて大学に入って特に、3年とか4年生の時。この頃、やっとネットが普及した頃だけどそんな中で遊んでいる時もあるけどその一方で癒やしを求めていた。そしてhttps://25444.diarynote.jp/202106110028088463/で書いた空白の記憶の事もどういうメカニズムで起きたのか、どうしたら取り戻せるかあれこれ考えていたし答えを聞いていた。
そんな中でとあるいじめ問題を取り上げている掲示板に流れ着いたけどそこでもやっぱり苦しいメッセージを書き込んでくる人たちに寄り添うような形での返信や時にはメールを送っていた。他の掲示板の住人たちと共にSOSを発信している人たちを救いたかった。自分も癒えぬ傷を持っているからこそここに書き込んでくる人たちの力になりたかったしせめて、会ったこともなければ話したことも無いけどメッセージやメールが一人では無いという気持ちは伝わることで救いになった。
大学時代後半、こういう形で自分のトラウマを武器にしていじめと闘っていたなんてすっかり記憶から抜けていてこれを見た時、むしろ今の自分が見習うべきことだと思った。自分の場合、深刻なトラウマになったのは2つの時期のいじめがあったからでそれぞれ片方ならここまで深刻にはならなかった。そして関係の修復ができた人もいるし高校時代の相手は中学時代に色々とあったと風の噂で聞いていたこともあって全く無いと言えば嘘だけど相手には恨みを持つことをしないようにしてむしろ学校という異質な環境やいじめという行為そのものには許せないという気持ちは今も同じ。
この当時の自分がやっていたことは加害者への直接どうこうするのではなくて被害者を救うという形でいじめに対して許せないという気持ちを示すのは優しい復讐。今度は大人の知識や経験を踏まえて再びできることはやりたい。消えないトラウマを抱えていることだし、多くの傷ついた人たちのためにも。
今日の1枚は高校時代に鶯谷で撮影した、夢空間北斗星の推進回送。上野から尾久への推進回送も今では不定期に走るカシオペア紀行だけ。そういえば北斗星も定期3往復以外にエルムと夢空間が走った時もあったな。
の中で
-過去の自分が求めていた誰かを守る強さと優しさを追い求めること。そして胸の痛みはその武器として使うこと-
この胸の痛みを武器として使うということになった流れです。
https://25444.diarynote.jp/202106280058438924/ で当時毎週欠かさず聞いていたラジオ、ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!にまつわることでこの時書かなかった話になるんだけど、これは高3の秋だからまさに不調のど真ん中で一番苦しかった時のこと。
とある、リスナーが酷いいじめで苦しんでいる電話のやり取りで学校・家どちらも安全な場所も無く、さすがのドリアンさんも手詰まりで番組のエンディングでリスナーたちにお手紙ちょうだいと言っていた。その時、自分以外の誰かも手紙を書くかもしれないけど、それでも自分なりに傷つき続けたことがあるからこそわかる気持ちで今、消えてもおかしくない命を守りたい。例え直接解決に導けることは書けなくても刹那の安らぎになってくれれば。そしてhttps://25444.diarynote.jp/202106280026471837/で書いた現存しないミニコミュニティに誘った。
そして1ヶ月ちょっとの後返事が来たし、そのコミュニティでも声を聴くことができた。その時は嬉しかったし何よりも自分の心の傷(トラウマ)が誰かの為になったことをちょっと誇らしく思った。これが胸の痛みを武器として使うことになった原点。
そして時は流れて大学に入って特に、3年とか4年生の時。この頃、やっとネットが普及した頃だけどそんな中で遊んでいる時もあるけどその一方で癒やしを求めていた。そしてhttps://25444.diarynote.jp/202106110028088463/で書いた空白の記憶の事もどういうメカニズムで起きたのか、どうしたら取り戻せるかあれこれ考えていたし答えを聞いていた。
そんな中でとあるいじめ問題を取り上げている掲示板に流れ着いたけどそこでもやっぱり苦しいメッセージを書き込んでくる人たちに寄り添うような形での返信や時にはメールを送っていた。他の掲示板の住人たちと共にSOSを発信している人たちを救いたかった。自分も癒えぬ傷を持っているからこそここに書き込んでくる人たちの力になりたかったしせめて、会ったこともなければ話したことも無いけどメッセージやメールが一人では無いという気持ちは伝わることで救いになった。
大学時代後半、こういう形で自分のトラウマを武器にしていじめと闘っていたなんてすっかり記憶から抜けていてこれを見た時、むしろ今の自分が見習うべきことだと思った。自分の場合、深刻なトラウマになったのは2つの時期のいじめがあったからでそれぞれ片方ならここまで深刻にはならなかった。そして関係の修復ができた人もいるし高校時代の相手は中学時代に色々とあったと風の噂で聞いていたこともあって全く無いと言えば嘘だけど相手には恨みを持つことをしないようにしてむしろ学校という異質な環境やいじめという行為そのものには許せないという気持ちは今も同じ。
この当時の自分がやっていたことは加害者への直接どうこうするのではなくて被害者を救うという形でいじめに対して許せないという気持ちを示すのは優しい復讐。今度は大人の知識や経験を踏まえて再びできることはやりたい。消えないトラウマを抱えていることだし、多くの傷ついた人たちのためにも。
今日の1枚は高校時代に鶯谷で撮影した、夢空間北斗星の推進回送。上野から尾久への推進回送も今では不定期に走るカシオペア紀行だけ。そういえば北斗星も定期3往復以外にエルムと夢空間が走った時もあったな。
大学受験をくぐり抜けて~カウンセリングにて~
2021年7月8日 流星の彼方(回想録)
大学受験を何とかくぐり抜けてきて無事に終わったことを振り帰った時に出てくる言葉はと言うとそれは後のカウンセリングの時間でカウンセラーに言った一言に尽きると思う。
大学に入って少し経ってから受験の反動?それとも今まで抑えてきたものが出始めていた?ということで本当に精神的にグラグラしていた時期があってそんな時に大学の相談室で何回かカウンセリングをしたのと、もう一つはここにも書いたと思うけど2003年~2005年に治療を始めた時のカウンセリングの時。
どちらの時も大学受験を振り返って見た時に出てきた言葉はというと「辛かった」・「怖かった」この2つ。
辛いのは回想録の通り、その時の自分の置かれていた環境の厳しさと自分自身もいじめの心の傷がこの時点でもパニック障害として出てきていて満員電車が短時間しか乗れないとか寝る時の過呼吸というかパニック発作で満足に眠れないこともあった。そしてそれが翌日以降も続いてみたり、何とか眠ってもやっぱり辛い気持ちで目が覚める。
怖かったというのは、夏休み以降の不調で模試を受ければ軒並みE判定で全滅しそうだったし、不調の出口が見えない中でもがいていたからもあったけどそれよりも眠れない時とかもうこの状態から抜け出せそうに無いと思ったり、精神的に限界を超えて壊れてしまうんじゃないかと感じていた。
とてもじゃないが、受験に失敗したとか今書いたような断念せざる得なくなった後なんて何も残らない。未来への希望なんて何にも無い世界でどう生きろと?怖くて考えられなかったと書いたけど、その怖さに根底にはその状態から新しい道を模索することなんてできなくて押し潰されるのは確実だと思ったから。
だから、受験は辛くて怖かったが感想。無事にくぐり抜けられたからこそ言えるのは強くなれたというか強くならざる得なかったことかな?だから、腎臓の病気が見つかってココにもかいた通り、最初の数日間は落ち込んでいたし絶望したような気持ちだったけど、そこから立ち直ってからは全てを受け入れられたし周りには大きな病気を抱えているような素振りはあまり見せなかった。
周りの人にも気がつけば「大学受験のこと考えればまだ余裕だから」と言っている自分がいた。受験の辛さがなかったとしたらむしろ腎臓の病気が見つかった時に現実を受け入れられなくてどうなっていたのかわからないし、ひたすら食事制限とかできなかったと思う。
今日の1枚は1995年夏?鶯谷~日暮里の間で撮った485系ひたち。晩年のひたちカラーになる前の国鉄色。そして最近この写真を見て気がついたのがこのクハはサロ481から改造されたから小窓だったんですね。
大学に入って少し経ってから受験の反動?それとも今まで抑えてきたものが出始めていた?ということで本当に精神的にグラグラしていた時期があってそんな時に大学の相談室で何回かカウンセリングをしたのと、もう一つはここにも書いたと思うけど2003年~2005年に治療を始めた時のカウンセリングの時。
どちらの時も大学受験を振り返って見た時に出てきた言葉はというと「辛かった」・「怖かった」この2つ。
辛いのは回想録の通り、その時の自分の置かれていた環境の厳しさと自分自身もいじめの心の傷がこの時点でもパニック障害として出てきていて満員電車が短時間しか乗れないとか寝る時の過呼吸というかパニック発作で満足に眠れないこともあった。そしてそれが翌日以降も続いてみたり、何とか眠ってもやっぱり辛い気持ちで目が覚める。
怖かったというのは、夏休み以降の不調で模試を受ければ軒並みE判定で全滅しそうだったし、不調の出口が見えない中でもがいていたからもあったけどそれよりも眠れない時とかもうこの状態から抜け出せそうに無いと思ったり、精神的に限界を超えて壊れてしまうんじゃないかと感じていた。
とてもじゃないが、受験に失敗したとか今書いたような断念せざる得なくなった後なんて何も残らない。未来への希望なんて何にも無い世界でどう生きろと?怖くて考えられなかったと書いたけど、その怖さに根底にはその状態から新しい道を模索することなんてできなくて押し潰されるのは確実だと思ったから。
だから、受験は辛くて怖かったが感想。無事にくぐり抜けられたからこそ言えるのは強くなれたというか強くならざる得なかったことかな?だから、腎臓の病気が見つかってココにもかいた通り、最初の数日間は落ち込んでいたし絶望したような気持ちだったけど、そこから立ち直ってからは全てを受け入れられたし周りには大きな病気を抱えているような素振りはあまり見せなかった。
周りの人にも気がつけば「大学受験のこと考えればまだ余裕だから」と言っている自分がいた。受験の辛さがなかったとしたらむしろ腎臓の病気が見つかった時に現実を受け入れられなくてどうなっていたのかわからないし、ひたすら食事制限とかできなかったと思う。
今日の1枚は1995年夏?鶯谷~日暮里の間で撮った485系ひたち。晩年のひたちカラーになる前の国鉄色。そして最近この写真を見て気がついたのがこのクハはサロ481から改造されたから小窓だったんですね。
喜べ無かった勝利 ~センター試験を終えて~
2021年6月25日 流星の彼方(回想録)センター試験での自己採点の結果はすぐに予備校に提出してそれから3日後にはその結果が返却されて不思議な力の後押しもあって当時首都圏で数少ないセンター試験で判定してくれる大学のうち一つが合格濃厚圏入り。つまりこの時点で願書を出せば受かるからもう今までずっと心配というより怯えていた全滅の恐怖からも開放。
そしてこの大学を滑り止めにして2月の本命は本当に行きたい大学に絞っての受験。今の調子なら行けると思っていた。そして合格発表・・・その本命に落ちた。ショックで親にはその場でもう1年やらせてくれと言ったりした。こんな不本意な形で終わりにしたくはない。でも親はそれでも4月から行く大学があるのだからと喜んでくれた。本命もその気になったら学籍だけ置いて仮面浪人してもいいとは言ってくれた。結局、部屋に戻って冷静になってみればこの1年でさえ精神的にかなり苦しかったしもう1年なんてさすがに精神的に耐えられるわけもないということで無理。
ちなみに自分が落ちた本命は思わぬ番狂わせがあった結果、この年だけは異常に難易度が高くなったということを風の噂で聴いた。普段の年なら受かっていたのかもしれない。でも4月から新たなスターを切れてよかった。誰も自分の事を知らない場所でやり直せる。もうそれだけで十分。合格を喜びきれなかったのは残念だけど。
そんなわけで受験は終了したけど、大学生活もすっかり板に着いていた5月過ぎに母親から仮面浪人して来年もう一度試験を受け直す話はどうしたの?と聞かれた時には苦笑いしかできなかった。だってもう1年耐えられる状態でもないし今が楽しくてもう再受験なんてどうでもよかったから。
そしてこの大学を滑り止めにして2月の本命は本当に行きたい大学に絞っての受験。今の調子なら行けると思っていた。そして合格発表・・・その本命に落ちた。ショックで親にはその場でもう1年やらせてくれと言ったりした。こんな不本意な形で終わりにしたくはない。でも親はそれでも4月から行く大学があるのだからと喜んでくれた。本命もその気になったら学籍だけ置いて仮面浪人してもいいとは言ってくれた。結局、部屋に戻って冷静になってみればこの1年でさえ精神的にかなり苦しかったしもう1年なんてさすがに精神的に耐えられるわけもないということで無理。
ちなみに自分が落ちた本命は思わぬ番狂わせがあった結果、この年だけは異常に難易度が高くなったということを風の噂で聴いた。普段の年なら受かっていたのかもしれない。でも4月から新たなスターを切れてよかった。誰も自分の事を知らない場所でやり直せる。もうそれだけで十分。合格を喜びきれなかったのは残念だけど。
そんなわけで受験は終了したけど、大学生活もすっかり板に着いていた5月過ぎに母親から仮面浪人して来年もう一度試験を受け直す話はどうしたの?と聞かれた時には苦笑いしかできなかった。だってもう1年耐えられる状態でもないし今が楽しくてもう再受験なんてどうでもよかったから。
不思議な力に導かれて ~E判定からの逆転劇~
2021年6月24日 流星の彼方(回想録)
いよいよ部隊は第2戦のセンター試験へ。もう直前の模試も全ての教科が噛み合わなかったから実力なんて判定不能。道なる力を信じていざ本番。
初日は英語と日本史。英語は予想通りの仕上がりでいい具合に伸びたと思った。そして日本史はというと失敗。センター対策を十分にしてなかったからその分でわからない問題がちょっと多くて微妙だな。こうして初日は終了。
そして今までに経験が全く無い連続となる二日目。実は今まで模試では次の日は疲れてというか全力を出し切るともう何もしたくない状態でいつもあまり何かをするという感じではなかったので連続2日はきついなと思っていたが国語でもうその不安は的中。緊張とパニック発作が出かかったりしてもうコンディションはあまり良くない。いざスタートして最初の現代文に取り掛かったときに明らかに何か違和感を感じてそして集中力を使い切ってしまい自分でもやばい予兆が出始めていると思っていた。古文・漢文はまだ残っているけど余力なんてもういくらも残っていないこのままではここで終わってしまう。
この先のBGMはTWO-MIXのRHYTHM EMOTION
https://www.youtube.com/watch?v=6WCh2i9cXIk
で。
そんな時に、ふっと体が軽くなり胸の中の苦痛とか疲れとかが取り除かれる感じがして緊張感も無くなると共にものすごい集中力と気合が出てきて自分の背中を強く押してくれる。この不思議な力の正体は何?予備校の授業でもたまにあったけどここで出るとは思ってもいなかったのと何だろうこのまるで人が変わったかのようなパワーは。
そして最後は政治経済。これはセンター試験なら何故か新聞を毎日読むくらいしかして無くてもありえない点数を出せるのと社会は2科目受けたらいい方を採用するから点数は度外視で受けたけど、もうパニック発作を起こし始めていてギリギリまで耳栓つかてそして、何よりもこの時だけは京急が憎かった。上りは八景手前の制限を抜けてから目一杯加速して文庫に飛び込むし下りは文庫を出てから勢いよくその先の制限に飛び込むから加速音にジョイント音がうるさい。それでも何とか問題を問いてセンター試験は終了。
この日にすでに英語と日本史の自己採点を済ませて翌日には不思議な力に導かれた国語と政治経済の自己採点をして予備校に提出。何と、国語は前半の現代文が100点中50点と失敗なのに古文・漢文は81点と予想問題とか模試でも出したこと無い点数。政治経済も80点台後半と予想通りの爆発ぶり。何とセンター試験翌日にはもう自己採点で予備校が発表した予想ボーダーでは合格濃厚圏まであと数点までの大学があった。ここは11月の模試ではE判定だったのに。まさかのE判定からの逆転劇へ。あの不思議な力が無かったら国語がどこまで落ち込んでいたかわからない。何よりも実力以上の点数を出した古文・漢文は誰かが乗り移ったとしか言いようのない実力以上の点数。あの不思議な力は何だったのだろう?それは今でもわからない。ただ自分の信念と苦しいながらも諦めずにひたむきに夢を追い続けたことに対する神様からのプレゼントなのかもしれない。
こうしてセンター試験は終了。いよいよ受験生活も終わりが見えてきた気がする。そんな今日の一枚は373系の特急東海。実は入試が終わってから中学時代の友人と青春18を使ってこの車両が使われているムーンライトながらで旅行しようと言っていたしそれが現実の物になったのがこのセンター試験だから。
初日は英語と日本史。英語は予想通りの仕上がりでいい具合に伸びたと思った。そして日本史はというと失敗。センター対策を十分にしてなかったからその分でわからない問題がちょっと多くて微妙だな。こうして初日は終了。
そして今までに経験が全く無い連続となる二日目。実は今まで模試では次の日は疲れてというか全力を出し切るともう何もしたくない状態でいつもあまり何かをするという感じではなかったので連続2日はきついなと思っていたが国語でもうその不安は的中。緊張とパニック発作が出かかったりしてもうコンディションはあまり良くない。いざスタートして最初の現代文に取り掛かったときに明らかに何か違和感を感じてそして集中力を使い切ってしまい自分でもやばい予兆が出始めていると思っていた。古文・漢文はまだ残っているけど余力なんてもういくらも残っていないこのままではここで終わってしまう。
この先のBGMはTWO-MIXのRHYTHM EMOTION
https://www.youtube.com/watch?v=6WCh2i9cXIk
で。
そんな時に、ふっと体が軽くなり胸の中の苦痛とか疲れとかが取り除かれる感じがして緊張感も無くなると共にものすごい集中力と気合が出てきて自分の背中を強く押してくれる。この不思議な力の正体は何?予備校の授業でもたまにあったけどここで出るとは思ってもいなかったのと何だろうこのまるで人が変わったかのようなパワーは。
そして最後は政治経済。これはセンター試験なら何故か新聞を毎日読むくらいしかして無くてもありえない点数を出せるのと社会は2科目受けたらいい方を採用するから点数は度外視で受けたけど、もうパニック発作を起こし始めていてギリギリまで耳栓つかてそして、何よりもこの時だけは京急が憎かった。上りは八景手前の制限を抜けてから目一杯加速して文庫に飛び込むし下りは文庫を出てから勢いよくその先の制限に飛び込むから加速音にジョイント音がうるさい。それでも何とか問題を問いてセンター試験は終了。
この日にすでに英語と日本史の自己採点を済ませて翌日には不思議な力に導かれた国語と政治経済の自己採点をして予備校に提出。何と、国語は前半の現代文が100点中50点と失敗なのに古文・漢文は81点と予想問題とか模試でも出したこと無い点数。政治経済も80点台後半と予想通りの爆発ぶり。何とセンター試験翌日にはもう自己採点で予備校が発表した予想ボーダーでは合格濃厚圏まであと数点までの大学があった。ここは11月の模試ではE判定だったのに。まさかのE判定からの逆転劇へ。あの不思議な力が無かったら国語がどこまで落ち込んでいたかわからない。何よりも実力以上の点数を出した古文・漢文は誰かが乗り移ったとしか言いようのない実力以上の点数。あの不思議な力は何だったのだろう?それは今でもわからない。ただ自分の信念と苦しいながらも諦めずにひたむきに夢を追い続けたことに対する神様からのプレゼントなのかもしれない。
こうしてセンター試験は終了。いよいよ受験生活も終わりが見えてきた気がする。そんな今日の一枚は373系の特急東海。実は入試が終わってから中学時代の友人と青春18を使ってこの車両が使われているムーンライトながらで旅行しようと言っていたしそれが現実の物になったのがこのセンター試験だから。
初戦敗退からの復活劇 ~Going History~
2021年6月23日 流星の彼方(回想録)流星の大学受験は12月に初戦を迎えてそこから3週間くらいのインターバルでセンター試験(今の大学入学共通テスト)から2月の各大学の試験というスケジュールで。その初戦の結果が来たのはセンター試験の数日前。
もうこれで受かったらその後の予定は全てキャンセルしてもいいくらいだったけど結果はと言うと不合格。予備校の先生とかからこれは2月の前哨戦で勝ちに行く試験ではないと言われてもやっぱり落ち込むわけで結果発表の日は何も手につかなかった・・・それがその日のうちに立ち直ったんだだな。
落ちたのを知って勝ち目が薄い試験でもショックだったしその後は何も手につかないような感じでしばらくいてこれではと思って音楽をかけて気持ちが前向きになるのを待っていた時、かかった曲は林原めぐみさんのGoing History。ギタによるイントロががっこいいアップテンポな曲そして2番の歌詞の
♪夢はどうして 遠くへ逃げるの
夢はどうして 他人の物なの
We can We can anytime
本気に泣けてくる 明日も何も見えない♪
♪眩しいほど 貫くほど 夢中な夢みつけたい
時が早く過ぎるくらい 楽しい夢みつけたい♪
もうこの歌詞に反応して脳裏をよぎったのはこの曲はというとスレイヤーズEX.向け。つまりリナ=インバースをイメージしている。ということ。もしリナならもうここまで来たら落ち込んでいないだろうし、わずかな可能性に全てを賭けて突破口を見つけただろう。もう自分もココまで来たらあとは次こそ勝利を勝ち取るしか道はない。そう思った瞬間もう気持ちは次のセンター試験へ。今度こそ勝利を掴みたい。そう思いながら本番、横浜市大へ向かう京急でも聴いていた。明日を掴むために。
もうこれで受かったらその後の予定は全てキャンセルしてもいいくらいだったけど結果はと言うと不合格。予備校の先生とかからこれは2月の前哨戦で勝ちに行く試験ではないと言われてもやっぱり落ち込むわけで結果発表の日は何も手につかなかった・・・それがその日のうちに立ち直ったんだだな。
落ちたのを知って勝ち目が薄い試験でもショックだったしその後は何も手につかないような感じでしばらくいてこれではと思って音楽をかけて気持ちが前向きになるのを待っていた時、かかった曲は林原めぐみさんのGoing History。ギタによるイントロががっこいいアップテンポな曲そして2番の歌詞の
♪夢はどうして 遠くへ逃げるの
夢はどうして 他人の物なの
We can We can anytime
本気に泣けてくる 明日も何も見えない♪
♪眩しいほど 貫くほど 夢中な夢みつけたい
時が早く過ぎるくらい 楽しい夢みつけたい♪
もうこの歌詞に反応して脳裏をよぎったのはこの曲はというとスレイヤーズEX.向け。つまりリナ=インバースをイメージしている。ということ。もしリナならもうここまで来たら落ち込んでいないだろうし、わずかな可能性に全てを賭けて突破口を見つけただろう。もう自分もココまで来たらあとは次こそ勝利を勝ち取るしか道はない。そう思った瞬間もう気持ちは次のセンター試験へ。今度こそ勝利を掴みたい。そう思いながら本番、横浜市大へ向かう京急でも聴いていた。明日を掴むために。
我らは受験本気組 ~救いの時間~
2021年6月22日 流星の彼方(回想録)高3の選択科目の中で文系で大学進学を目指す人といっても10人にも満たない人数で固まっていたのがあってその時はさすがに内職はしてないで本気で聞いていたほど。
その授業でも1年の終わりに担任だった先生に引き離して欲しいとお願いした人つまりいじめの相手も含まれていてやっぱり最初は怖いとかそんな感じだったけどもう入試本番が近い頃くらいには普通に話すようになっていた。
そして、気がつけば受験本気組の結成。うちの高校では進学は推薦入試を狙って落ちてから一般受験の準備をすれば間に合うとか言っていた人が多かったというか先生もそんな感じだったけど、うちらはそんな甘ったるいことを考えている人はどこも受からない(当たり)と鼻で笑ったり、推薦組で落ちた人がその場で大学から専門に進路を変更したのを本気で受験する覚悟もないやつと言ってみたり、極めつけはうちの学校ではどれだけ学校を捨てられるかで受験の合否が決まると言い切ってみたりもう完全に言いたい放題の世界。
そして、極めつけが最後の定期試験でどこからともなくどこかの大学入試では記述式なのにボールペン指定と本当か嘘かわからない話が出てきて勢い任せに仲良くボールペンデスマッチ。最後だから何も言わずに先生も採点してくれたから後で苦笑いで終わり。
受験が終わった後は誰が一番上だったかとかは無く素直にお互いの努力と健闘を称え合って卒業することができた。
いじめの相手全員ではないけどこうして話すようになってお互いにお互いを称えて卒業できたことにはすごく救われた。1年の頃の自分からすればまさか日が来るとは思ってなかったわけだし。そしてこれで自分の加害者に思う気持ちも変わったな。
その授業でも1年の終わりに担任だった先生に引き離して欲しいとお願いした人つまりいじめの相手も含まれていてやっぱり最初は怖いとかそんな感じだったけどもう入試本番が近い頃くらいには普通に話すようになっていた。
そして、気がつけば受験本気組の結成。うちの高校では進学は推薦入試を狙って落ちてから一般受験の準備をすれば間に合うとか言っていた人が多かったというか先生もそんな感じだったけど、うちらはそんな甘ったるいことを考えている人はどこも受からない(当たり)と鼻で笑ったり、推薦組で落ちた人がその場で大学から専門に進路を変更したのを本気で受験する覚悟もないやつと言ってみたり、極めつけはうちの学校ではどれだけ学校を捨てられるかで受験の合否が決まると言い切ってみたりもう完全に言いたい放題の世界。
そして、極めつけが最後の定期試験でどこからともなくどこかの大学入試では記述式なのにボールペン指定と本当か嘘かわからない話が出てきて勢い任せに仲良くボールペンデスマッチ。最後だから何も言わずに先生も採点してくれたから後で苦笑いで終わり。
受験が終わった後は誰が一番上だったかとかは無く素直にお互いの努力と健闘を称え合って卒業することができた。
いじめの相手全員ではないけどこうして話すようになってお互いにお互いを称えて卒業できたことにはすごく救われた。1年の頃の自分からすればまさか日が来るとは思ってなかったわけだし。そしてこれで自分の加害者に思う気持ちも変わったな。
計画的不登校 ~一線を超えてしまった時~
2021年6月21日 流星の彼方(回想録)
今日はクリニックに行って薬の調整。といっても単に増量して終わりなんだけど。これでほぼ大丈夫かな?
さてとここからは回想録に入るけど高3の受験が近づいてきた12月あたりから実は不登校になっていました。これも日記に具体的な記述が無いとかもう何で肝心なことを書かないか当時の流星を小一時間問い詰め(ry。
一応、高3になって進路を決める三者面談の時がきっかけに過去にいじめがあったこと(でもさすがに思い詰めていたことは話せなかったけど)、学校で周りになじめていないことを親に話していて無理に学校に行かなくてもいいということで学期末の球技大会とか文化祭は休んでも文句言われなかった。もう卒業さえすればいいということで11月までは行事以外はしっかり出席日数を稼いで卒業試験?2学期の期末試験あたりからは学校にあまり行かない不登校状態に突入。自分の場合は他の不登校をしている・せざる得ない人からすれば申し訳ないけど卒業できるだけの日数を出席した上で意図的にやっている計画的不登校で本来の形とは違う。確かに学校に行かないと気分的に楽だし、受験勉強も予備校とそれに付随する時間以外は自由に使えるのは大きい。でも不登校の人の気分というのはわからないんだよね。学校に行けなかったわけでもないから。
さすがにあまりに休むから学校から電話がかかってきたけど親が出てくれて受験をする上で学校が負担になるということで休んでいるのと本人が自己管理しているから任せていると言ってくれたのはすごく助かった。おかげで学校からの電話は1度だけ。親公認ならもう学校も手の打ちようが無かったな。
といっても、完全に不登校だったわけではなくて週に1・2日は出たい授業とかあったから行っていたけどさすがにその時に担任の先生には怒られた。でも何で学校に来いというのだろう?必要な出席日数も満たしたし試験も赤点は取っていない、当時の自分の不安定さからすればわずかなことで悪影響が出てしまう。結局こっちも一歩も引かなかったから話は平行線で先生は大学に入ってからも就職活動で同じことするだろと言っていたけどさすがにそれはなかったな。だって学校を捨てるのは高3の1年間だけにすると誓っていたから。ちなみに大学時代に一度だけ学校に当時と同じように自転車で行って先生に会って謝ったのと今は大学を楽しんでいるということは話しました。あの怒られた後もこっちが悪いなんて全く思ってないから反省するわけもなく休みがちだったのは変わらず。
ということで、高2の皆勤賞とは違って高3は確実に小学校~高校で一番欠席日数が多いはず。確かに学校の負担がない分気持ち的にも楽だったし学校に行かない選択はありかもしれない。というか、中学だと1クラスに1人以上は学校に来ない現状というのは問題。これこそ本腰を入れて対応しないといけないことじゃないの?もう何十年も放置しているけど。
今日の1枚は受験生だった96年に気分転換かな?で平和島で撮影した2000形。これが一番乗っていて落ち着く車だったな。特にコンディションの悪い日の帰りに上大岡から無料開放のwing号に乗ってシートに座ったときの安堵感。横須賀に着くまでが癒やしのの一時だった。
さてとここからは回想録に入るけど高3の受験が近づいてきた12月あたりから実は不登校になっていました。これも日記に具体的な記述が無いとかもう何で肝心なことを書かないか当時の流星を小一時間問い詰め(ry。
一応、高3になって進路を決める三者面談の時がきっかけに過去にいじめがあったこと(でもさすがに思い詰めていたことは話せなかったけど)、学校で周りになじめていないことを親に話していて無理に学校に行かなくてもいいということで学期末の球技大会とか文化祭は休んでも文句言われなかった。もう卒業さえすればいいということで11月までは行事以外はしっかり出席日数を稼いで卒業試験?2学期の期末試験あたりからは学校にあまり行かない不登校状態に突入。自分の場合は他の不登校をしている・せざる得ない人からすれば申し訳ないけど卒業できるだけの日数を出席した上で意図的にやっている計画的不登校で本来の形とは違う。確かに学校に行かないと気分的に楽だし、受験勉強も予備校とそれに付随する時間以外は自由に使えるのは大きい。でも不登校の人の気分というのはわからないんだよね。学校に行けなかったわけでもないから。
さすがにあまりに休むから学校から電話がかかってきたけど親が出てくれて受験をする上で学校が負担になるということで休んでいるのと本人が自己管理しているから任せていると言ってくれたのはすごく助かった。おかげで学校からの電話は1度だけ。親公認ならもう学校も手の打ちようが無かったな。
といっても、完全に不登校だったわけではなくて週に1・2日は出たい授業とかあったから行っていたけどさすがにその時に担任の先生には怒られた。でも何で学校に来いというのだろう?必要な出席日数も満たしたし試験も赤点は取っていない、当時の自分の不安定さからすればわずかなことで悪影響が出てしまう。結局こっちも一歩も引かなかったから話は平行線で先生は大学に入ってからも就職活動で同じことするだろと言っていたけどさすがにそれはなかったな。だって学校を捨てるのは高3の1年間だけにすると誓っていたから。ちなみに大学時代に一度だけ学校に当時と同じように自転車で行って先生に会って謝ったのと今は大学を楽しんでいるということは話しました。あの怒られた後もこっちが悪いなんて全く思ってないから反省するわけもなく休みがちだったのは変わらず。
ということで、高2の皆勤賞とは違って高3は確実に小学校~高校で一番欠席日数が多いはず。確かに学校の負担がない分気持ち的にも楽だったし学校に行かない選択はありかもしれない。というか、中学だと1クラスに1人以上は学校に来ない現状というのは問題。これこそ本腰を入れて対応しないといけないことじゃないの?もう何十年も放置しているけど。
今日の1枚は受験生だった96年に気分転換かな?で平和島で撮影した2000形。これが一番乗っていて落ち着く車だったな。特にコンディションの悪い日の帰りに上大岡から無料開放のwing号に乗ってシートに座ったときの安堵感。横須賀に着くまでが癒やしのの一時だった。
生きることの意味 ~果たせなかった夢のために~
2021年6月17日 流星の彼方(回想録)今日の日記は昨日の続きでドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!を聞いてきた中で忘れることのできない、白血病のかよさんという女性の話の続き。
そんな彼女の白血病という病の中でも決して明るさを失わずにラジオの前でドリアンさんと話している。その声にどれだけ励まされたのだろう。闘病だけでも大変なことなのに大学受験も誰もが難関という学校に受かっている。しかし現実とは残酷なものでラジオの前で明るい声を入れた後に容態が急変してしまい亡くなってしまった。
その知らせを番組で放送したときはドリアンさんが今までに無い前置きを入れてから事実を発表してもうその時はドリアンさんも泣きながら声にならない声で何とか番組を締めくくったけど、自分含めてラジオの前でどれだけの人が泣いただろう。そして、彼女は自分があとわずかな命だということを悟って手紙を残してくれていた。それにはリスナーたちに精一杯生きることと、大切な自分や周りの人を守ってくださいと書き記していた。その言葉の意味は今の自分の根底的な価値観になっていること。
そしてその翌週の追悼特番ではこれも本人があと僅かな命ということを前提にして声を残してくれていた。それは今までの本当の気持ちが入った声が流れて弱音もあったけどそれは等身大の人なんだなと思った。今までの明るい声は本人は否定しているようだったけど今までのラジオの前での明るい声も決して嘘ではないと思う。そのメッセージの中では
最近、同い年ぐらいの子たちがいろんな悩みを持って自ら命を絶つ人がいます。自分で命を絶つくらいなら私に命を分けてください。そうやって叫びたくなるくらいな気持ちです。
という言葉があったけどこれこそ本当に忘れられない。この声と先週の声を含めてどんなに辛くても命を放棄すること無く寿命を全うすること。これはリスナーたちへのかよさんからが出した宿題。自分も日記では誓っているけど情けないことにこの言葉を本当に受け止めて揺らぐことのない価値観になるにはもう数年かかることなんだけど。
今の自分は受験の後も色々と辛いこともあったし限界だと思ったこともあった、ここ数年だと何よりも腎臓に深刻な病気が見つかって移植してとか医療のおかげで今も生きていることができている。これは本当にありがたいことだし奇跡的な出来事に救われたこともった。かよさんはドリアンさん向けの手紙の中で叶えたかった夢の一つが年老いていくということ。しぶといながらも今も生き続けているのは当時同じ気持ちを共有した仲間の一人として代わりに叶えているのかもしれない。
この6月はそのかよさんの誕生日と命日がある月。ただ何となく毎日を過ごしている中でちょっと足を止めてそのありがたさを考えるのが6月。
そしてドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!ではもう一つ忘れられない話があるけどこれは別の機会にします。
そんな彼女の白血病という病の中でも決して明るさを失わずにラジオの前でドリアンさんと話している。その声にどれだけ励まされたのだろう。闘病だけでも大変なことなのに大学受験も誰もが難関という学校に受かっている。しかし現実とは残酷なものでラジオの前で明るい声を入れた後に容態が急変してしまい亡くなってしまった。
その知らせを番組で放送したときはドリアンさんが今までに無い前置きを入れてから事実を発表してもうその時はドリアンさんも泣きながら声にならない声で何とか番組を締めくくったけど、自分含めてラジオの前でどれだけの人が泣いただろう。そして、彼女は自分があとわずかな命だということを悟って手紙を残してくれていた。それにはリスナーたちに精一杯生きることと、大切な自分や周りの人を守ってくださいと書き記していた。その言葉の意味は今の自分の根底的な価値観になっていること。
そしてその翌週の追悼特番ではこれも本人があと僅かな命ということを前提にして声を残してくれていた。それは今までの本当の気持ちが入った声が流れて弱音もあったけどそれは等身大の人なんだなと思った。今までの明るい声は本人は否定しているようだったけど今までのラジオの前での明るい声も決して嘘ではないと思う。そのメッセージの中では
最近、同い年ぐらいの子たちがいろんな悩みを持って自ら命を絶つ人がいます。自分で命を絶つくらいなら私に命を分けてください。そうやって叫びたくなるくらいな気持ちです。
という言葉があったけどこれこそ本当に忘れられない。この声と先週の声を含めてどんなに辛くても命を放棄すること無く寿命を全うすること。これはリスナーたちへのかよさんからが出した宿題。自分も日記では誓っているけど情けないことにこの言葉を本当に受け止めて揺らぐことのない価値観になるにはもう数年かかることなんだけど。
今の自分は受験の後も色々と辛いこともあったし限界だと思ったこともあった、ここ数年だと何よりも腎臓に深刻な病気が見つかって移植してとか医療のおかげで今も生きていることができている。これは本当にありがたいことだし奇跡的な出来事に救われたこともった。かよさんはドリアンさん向けの手紙の中で叶えたかった夢の一つが年老いていくということ。しぶといながらも今も生き続けているのは当時同じ気持ちを共有した仲間の一人として代わりに叶えているのかもしれない。
この6月はそのかよさんの誕生日と命日がある月。ただ何となく毎日を過ごしている中でちょっと足を止めてそのありがたさを考えるのが6月。
そしてドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!ではもう一つ忘れられない話があるけどこれは別の機会にします。
流星を支えていたもの ~見えない絆に支えられて~
2021年6月16日 流星の彼方(回想録)受験生だった頃の流星はというと今とは想像もつかないほど弱かったというよりも、普通?の高校生が過酷な状況に置かれて孤軍奮闘とか無理。そんなわけで今回は自分を支えていた物の話から。
一番支えてもらったのはとある電話を使ったラジオ。某政治家が絡んでいるのと現存していないから名前は出さないけど本当に支えられてました。もうこの1年の自分の心の中が全て詰まっている。いわゆる常連リスナーで苦しいこととか辛いことも一杯入れたしパーソナリティの人に窘められたり時には誰かを励ましていたり。もうこれが無かったら絶対にこの1年乗り越えられなかった。それくらい助けられたし存在が大きかった。
そしてもう一つはこれまたラジオなんだけど当時、ニッポン放送で土曜日の23:30~25:00に放送されていた「ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!」土曜日の夜は高2の時はこれと25:00から東京FMの嘉門達夫の爆裂スーパーファンタジーにつなぐのが黄金ルート。無理な時でもこっちは生で聞いて嘉門達夫は録音もあったけど(だって2番組同時に録音できなかったから)。
そのジャンベルジャン!はというとドリアンさんとリスナーが電話で色々な事を相談する人生相談の若者向けなんだけど大体、前半は軽い内容で済むことがあるけど何週に1回はラストはものすごく重たい内容だったりする。もう自分と同じ10代の人がこんな状況に置かれているとは想像もつかないくらい過酷でラジオの向こう側で聴いている自分も絶句してしまうこともあった。
その中でも白血病だったかよさんという自分の1つ上の女性のことは決して忘れることはできない。後のドリアンさんの小説「ベルリン発プラハ」にも彼女のこと触れているけど「あん」もモチーフになっていると言うから今度読んでみようと思っている。
ちょっと文字数が長くなりそうだからこの話は明日にします。この頃の自分はこういう直接会うことも話すこともないけど見えない絆でつながっている仲間たちに助けられたしそれが今の自分を形作っている。だからこそ厳しい環境でもやっていけのは紛れもない事実だから。
一番支えてもらったのはとある電話を使ったラジオ。某政治家が絡んでいるのと現存していないから名前は出さないけど本当に支えられてました。もうこの1年の自分の心の中が全て詰まっている。いわゆる常連リスナーで苦しいこととか辛いことも一杯入れたしパーソナリティの人に窘められたり時には誰かを励ましていたり。もうこれが無かったら絶対にこの1年乗り越えられなかった。それくらい助けられたし存在が大きかった。
そしてもう一つはこれまたラジオなんだけど当時、ニッポン放送で土曜日の23:30~25:00に放送されていた「ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!」土曜日の夜は高2の時はこれと25:00から東京FMの嘉門達夫の爆裂スーパーファンタジーにつなぐのが黄金ルート。無理な時でもこっちは生で聞いて嘉門達夫は録音もあったけど(だって2番組同時に録音できなかったから)。
そのジャンベルジャン!はというとドリアンさんとリスナーが電話で色々な事を相談する人生相談の若者向けなんだけど大体、前半は軽い内容で済むことがあるけど何週に1回はラストはものすごく重たい内容だったりする。もう自分と同じ10代の人がこんな状況に置かれているとは想像もつかないくらい過酷でラジオの向こう側で聴いている自分も絶句してしまうこともあった。
その中でも白血病だったかよさんという自分の1つ上の女性のことは決して忘れることはできない。後のドリアンさんの小説「ベルリン発プラハ」にも彼女のこと触れているけど「あん」もモチーフになっていると言うから今度読んでみようと思っている。
ちょっと文字数が長くなりそうだからこの話は明日にします。この頃の自分はこういう直接会うことも話すこともないけど見えない絆でつながっている仲間たちに助けられたしそれが今の自分を形作っている。だからこそ厳しい環境でもやっていけのは紛れもない事実だから。
苦手になった秋 ~どん底状態の中で~
2021年6月4日 流星の彼方(回想録)
もう秋はとにかく嫌な季節だと思ったのはこの時から。なにしろ、夏から冬の間の模試はそりゃ自分で言うのも何だけど内容が酷すぎる。偏差値でいえば6月辺りから比べて-10を超えるとかそれくらいとにかくボロクソな内容で自分でも愕然としていたけどそれ以上にフロント(親)は辛辣で勉強サボって何もやってないと簡単に結論づけて無理してでもがんばってきたことは全て否定されることに。
そして何を言っても結果が全てで終わらせてしまう。中学の頃なら見に覚えはありまくりだから反論の余地も無いけど今は全く違う。それなのにいつも成果が出れば期待するだけしていざ結果が出なくなるとはしごを外すみたいなこと傷つくし、高1の時に成績が一気に落ちたのも、その後も学内ではずっと成績が悪かったのももう勉強とか成績どころではなかったのに。後になって知ったけど、成績の急激な低下は子どもが出す勉強どころではない何か悩みとかがあるSOSのサインの一つにもなっているという。言われてみれば確かにどうだよな。
そんなわけで親とは反発心もあって喧嘩もよくしたな。だから家は安全だけどあまり居心地は良くなかった。そして夏を境に一気に成績が出なくなったのは予備校側でもブラックリストがあるらしくめでたくリスト入りしました。
予備校の授業前にあれこれ話をしてくれる大学生のアルバイトの人からいきなり名前を呼ばれて何かと思ったらヤバい人リスト入りしているから面談。まぁこの面談もキツイこと言われたけど出席率は抜群(学校は休んでも皆勤賞)だったし怠けているようにも思われていなかったから本当にスランプだと信じてくれてずっと心配してくれていたな。その時に言っていた「最後は自分を信じてがんばるしかない」その言葉今でも覚えています。
こんな感じだから特に落ち込んでいるというか精神状態が悪い時はもうこのまま抜け出せなくて本当に全敗してしまうのではないか?浪人禁止だったからそうなれば夢もここで終わってしまうしその先に待ち受けていることなんて怖くて考えられなかった。寝る時のパニック発作も回数が増えてきて危険信号が出ていたから今の状況に耐えられなくなって断念せざる得なくなるというよりも自分が壊れてしまいそうだった。
それでも何とか乗り越えて未来を手にしていたいという気持ちと絶望感が交互に現れては絶望の世界に飲み込まれないように必死にもがいていた。そんな時、穏やかだった中学の窓から見える風景とか教室とか色々なこと思い出して泣いたこともあった。穏やか頃に戻りたい。この頃の怖さや傷つくことも知らなかった自分に戻りたい。いくら願っても無理なことだとわかっていても。
こんな状況で結局、最後の模試でも全教科が噛み合うこともなくて英語が良ければ国語がダメとかその逆だったりで本当の実力は未知数のまま本番を迎える流れに。唯一、順調に仕上がっていたのは主砲の日本史だけ。
先が見えない不安感と絶望感を経験したおかげで秋がすっかり苦手に。今でもやっぱり苦手意識が先行してしまうな。今日の写真はの頃の京急でよく乗った車両ということで1143編成。この編成は1000形のなかでも特に最後は痛々しい姿で走り続けていたな。そして写真は少ないけどよく乗る編成だったな。
そして何を言っても結果が全てで終わらせてしまう。中学の頃なら見に覚えはありまくりだから反論の余地も無いけど今は全く違う。それなのにいつも成果が出れば期待するだけしていざ結果が出なくなるとはしごを外すみたいなこと傷つくし、高1の時に成績が一気に落ちたのも、その後も学内ではずっと成績が悪かったのももう勉強とか成績どころではなかったのに。後になって知ったけど、成績の急激な低下は子どもが出す勉強どころではない何か悩みとかがあるSOSのサインの一つにもなっているという。言われてみれば確かにどうだよな。
そんなわけで親とは反発心もあって喧嘩もよくしたな。だから家は安全だけどあまり居心地は良くなかった。そして夏を境に一気に成績が出なくなったのは予備校側でもブラックリストがあるらしくめでたくリスト入りしました。
予備校の授業前にあれこれ話をしてくれる大学生のアルバイトの人からいきなり名前を呼ばれて何かと思ったらヤバい人リスト入りしているから面談。まぁこの面談もキツイこと言われたけど出席率は抜群(学校は休んでも皆勤賞)だったし怠けているようにも思われていなかったから本当にスランプだと信じてくれてずっと心配してくれていたな。その時に言っていた「最後は自分を信じてがんばるしかない」その言葉今でも覚えています。
こんな感じだから特に落ち込んでいるというか精神状態が悪い時はもうこのまま抜け出せなくて本当に全敗してしまうのではないか?浪人禁止だったからそうなれば夢もここで終わってしまうしその先に待ち受けていることなんて怖くて考えられなかった。寝る時のパニック発作も回数が増えてきて危険信号が出ていたから今の状況に耐えられなくなって断念せざる得なくなるというよりも自分が壊れてしまいそうだった。
それでも何とか乗り越えて未来を手にしていたいという気持ちと絶望感が交互に現れては絶望の世界に飲み込まれないように必死にもがいていた。そんな時、穏やかだった中学の窓から見える風景とか教室とか色々なこと思い出して泣いたこともあった。穏やか頃に戻りたい。この頃の怖さや傷つくことも知らなかった自分に戻りたい。いくら願っても無理なことだとわかっていても。
こんな状況で結局、最後の模試でも全教科が噛み合うこともなくて英語が良ければ国語がダメとかその逆だったりで本当の実力は未知数のまま本番を迎える流れに。唯一、順調に仕上がっていたのは主砲の日本史だけ。
先が見えない不安感と絶望感を経験したおかげで秋がすっかり苦手に。今でもやっぱり苦手意識が先行してしまうな。今日の写真はの頃の京急でよく乗った車両ということで1143編成。この編成は1000形のなかでも特に最後は痛々しい姿で走り続けていたな。そして写真は少ないけどよく乗る編成だったな。
一人でいてもよかった時 ~修学旅行臨の中で~
2021年6月3日 流星の彼方(回想録)
小学校の修学旅行は今で言う集約臨で日光へ。当時の横須賀線は毎時4往復で久里浜~横須賀(田浦)は単線で線路容量が目一杯だからなのか学校~久里浜はバス(確か青バスブルリのどれか)。久里浜~横須賀は113系の定期列車で横須賀からようやく集約臨。
それで当時の流星はというと確かに小学校の頃、5・6年生全部にいじめはあった。でもクラスで完全に孤立しているかというとそんなことはなかったから思い詰めることもなかったし孤独を感じることもほとんどなかったな。でもそれでいざ集約臨に乗って最初は座席表どおりに座っていたけど気がつけば自分のボックスには他に誰もいないことが。
ちなみに乗っていたのはあの165系。モケットこそ暖色系になったけどあとはオリジナルの車。ボックスを一人で占領しても問題ないくらいの余裕って何だろう?165系の定員と学年の人数から計算してもよくわからんがとにかくボックスで一人だけに時間が長かった。
ただこの時の自分はというと・・・ボックスに誰もいなくて一人でも苦痛だと思ったこと全くなかったんだよね。むしろ、これが165系ならもう贅沢しすぎだし今考えれば横須賀~日光全区間一人なんて最高だろ。横須賀線なんて初詣で鎌倉までしか乗らないからその先は初めての世界。品鶴線に品川駅臨時ホームのスイッチバックそして東北本線とかもう全部が初めての連続。だから初めて見る風景に夢中で一人になってもむしろ一人の時間を楽しんでいたんだな。もちろん日光までの長旅(後に時刻表で青春18ルールで移動しても大差ないことが判明)だから時折、UNOとかトランプやろうとか言って誰かいたから全区間一人ではなかったけど。
帰りも同じような流れでそれで進行方向窓側のボックス席に座っていたから撮れたのが大宮~王子付近で特急あさまとずっと並走していたときの一コマ。さすがに写ルンですではブレるか。この時はさすがにこのボックス席は4人きっちり埋まってデットヒートをみんなで見守っていたな。
ちなみにこの時に今市駅で見た線路の横に微妙に盛り上がっているう○こと紙がトラウマ?になり流星の模型では国鉄時代に終わった車とかを除いて165系とか485系は汚物処理装置が付けている姿にしているのと、この修学旅行の話を模型仲間にしたら今の流星なら165系に乗っているなら自分の世界に入るためにボックスに誰も座らせなくても不思議でもないと言われた(爆)。いや今だったらボックスに2人で、お互いに足を伸ばして窓側の小さなテーブルには缶ビールなのに。
今日の写真はそのあさまとの並走シーンと165系ということで99年に紀勢本線で撮影した1コマ。
それで当時の流星はというと確かに小学校の頃、5・6年生全部にいじめはあった。でもクラスで完全に孤立しているかというとそんなことはなかったから思い詰めることもなかったし孤独を感じることもほとんどなかったな。でもそれでいざ集約臨に乗って最初は座席表どおりに座っていたけど気がつけば自分のボックスには他に誰もいないことが。
ちなみに乗っていたのはあの165系。モケットこそ暖色系になったけどあとはオリジナルの車。ボックスを一人で占領しても問題ないくらいの余裕って何だろう?165系の定員と学年の人数から計算してもよくわからんがとにかくボックスで一人だけに時間が長かった。
ただこの時の自分はというと・・・ボックスに誰もいなくて一人でも苦痛だと思ったこと全くなかったんだよね。むしろ、これが165系ならもう贅沢しすぎだし今考えれば横須賀~日光全区間一人なんて最高だろ。横須賀線なんて初詣で鎌倉までしか乗らないからその先は初めての世界。品鶴線に品川駅臨時ホームのスイッチバックそして東北本線とかもう全部が初めての連続。だから初めて見る風景に夢中で一人になってもむしろ一人の時間を楽しんでいたんだな。もちろん日光までの長旅(後に時刻表で青春18ルールで移動しても大差ないことが判明)だから時折、UNOとかトランプやろうとか言って誰かいたから全区間一人ではなかったけど。
帰りも同じような流れでそれで進行方向窓側のボックス席に座っていたから撮れたのが大宮~王子付近で特急あさまとずっと並走していたときの一コマ。さすがに写ルンですではブレるか。この時はさすがにこのボックス席は4人きっちり埋まってデットヒートをみんなで見守っていたな。
ちなみにこの時に今市駅で見た線路の横に微妙に盛り上がっているう○こと紙がトラウマ?になり流星の模型では国鉄時代に終わった車とかを除いて165系とか485系は汚物処理装置が付けている姿にしているのと、この修学旅行の話を模型仲間にしたら今の流星なら165系に乗っているなら自分の世界に入るためにボックスに誰も座らせなくても不思議でもないと言われた(爆)。いや今だったらボックスに2人で、お互いに足を伸ばして窓側の小さなテーブルには缶ビールなのに。
今日の写真はそのあさまとの並走シーンと165系ということで99年に紀勢本線で撮影した1コマ。
その頃に欲しかったもの ~厳しい現実の中で~
2021年6月2日 流星の彼方(回想録)受験生だった頃の日記の中に珍しく欲しい物を書いているのがあってそれは何かというと
暖かく受け入れてくれる居場所。周りの人の優しさや愛情に包まれて傷ついた心を癒やしたい。不安な気持ちから守られていたい。本当は再び飛び立てるまでしっかりと休みたい。
そんなことが書いてあった。そう願うのも無理はないよな。学校はもちろん、家でも親とは受験のこととかでぶつかることもあったり高望みしたりするから安心できる場所だけど心を癒す場所ではなかった。
この頃の自分には心の居場所なんてどこにあるの?と思っていた。もし誰かこの気持に寄り添ってくれる人がいたらどんなに救われたのだろう。
決して、手に入らないことはわかっているけど欲しかった。それが結果として、誰かを守るための強さと優しさをもった人になりたいという自分の理想像の原型になったのかもしれない。
暖かく受け入れてくれる居場所。周りの人の優しさや愛情に包まれて傷ついた心を癒やしたい。不安な気持ちから守られていたい。本当は再び飛び立てるまでしっかりと休みたい。
そんなことが書いてあった。そう願うのも無理はないよな。学校はもちろん、家でも親とは受験のこととかでぶつかることもあったり高望みしたりするから安心できる場所だけど心を癒す場所ではなかった。
この頃の自分には心の居場所なんてどこにあるの?と思っていた。もし誰かこの気持に寄り添ってくれる人がいたらどんなに救われたのだろう。
決して、手に入らないことはわかっているけど欲しかった。それが結果として、誰かを守るための強さと優しさをもった人になりたいという自分の理想像の原型になったのかもしれない。
流星版死のロード ~秋が苦手になった理由~
2021年6月1日 流星の彼方(回想録)
オーバーペースで飛ばしていた夏休み前半の反動はそれまで順調に伸びていた成績にも影響してきたどころの騒ぎではなくて実のところ最後の模試でやっと噛み合い始めたくらい。
8月以降は12月に向かって模試の回数も増えていくから当然各模試ごとのインターバルも短くなっていく。さらに会場はというと今まではほとんどホームグラウンドの横浜だったのが一気にアウェーとなる各大学のキャンパスに。最初は本番の予行演習という気持ち+京急以外に乗れると期待半分でいたもののそんなのは最初だけ。
日大六会キャンパスに伊勢原の東海大とか移動にも結構かかるような場所への移動もせいぜい京急で1時間も乗ってないような生活からすれば負担だった。唯一気楽だったのが夏休み前に一度模試で行っていたのと近かった関東学院大学の六浦キャンパス。そんな横浜以外の模試が続き、さらにその結果も惨憺たるものだからこれはもう流星版死のロード。
この死のロードをやっている頃が秋でしかも成績はボロボロというか論外で大学受験の中でも1番辛い季節だった。未来が閉ざされてしまいそうだったし、いくらもがいても明かりが見えてこないし本番までの時間はどんどん無くなっていくし。
前からこのブログで秋が苦手と書いているけどこの死のロードが秋を苦手にさせてしまった原因だったんだよな。この期間もっと色々なこともあったけどそれはまた別の機会にさせてもらおう。
今日の写真はこの時期、六会・伊勢原など小田急沿線が多かったということで大学に入ってから撮影した2600系。この頃はさすがに小田急は詳しくないし、相鉄ですら形式なんて意識するほど余裕もなかった。小田急はとりあえずこの顔の車に乗ったのは間違いないでしょう。
それと8月に日大の六会キャンパスへ行く小田急の車内で聞いたのがこの曲。
林原めぐみ Touch Yourself
https://www.youtube.com/watch?v=OUyI80il-y0
なんだか今の自分が置かれている境遇と共感するような歌詞、特に2番のサビに入る前の「自分で選んでココに来た日のこと 信じられたなら 笑える日来るから」もうこのフレーズを聞いて思わずジーンときちゃった。確かに受験は辛い道だけど自分の選んだこと。後戻りもできないしもう進むしか無いと思ったな。
8月以降は12月に向かって模試の回数も増えていくから当然各模試ごとのインターバルも短くなっていく。さらに会場はというと今まではほとんどホームグラウンドの横浜だったのが一気にアウェーとなる各大学のキャンパスに。最初は本番の予行演習という気持ち+京急以外に乗れると期待半分でいたもののそんなのは最初だけ。
日大六会キャンパスに伊勢原の東海大とか移動にも結構かかるような場所への移動もせいぜい京急で1時間も乗ってないような生活からすれば負担だった。唯一気楽だったのが夏休み前に一度模試で行っていたのと近かった関東学院大学の六浦キャンパス。そんな横浜以外の模試が続き、さらにその結果も惨憺たるものだからこれはもう流星版死のロード。
この死のロードをやっている頃が秋でしかも成績はボロボロというか論外で大学受験の中でも1番辛い季節だった。未来が閉ざされてしまいそうだったし、いくらもがいても明かりが見えてこないし本番までの時間はどんどん無くなっていくし。
前からこのブログで秋が苦手と書いているけどこの死のロードが秋を苦手にさせてしまった原因だったんだよな。この期間もっと色々なこともあったけどそれはまた別の機会にさせてもらおう。
今日の写真はこの時期、六会・伊勢原など小田急沿線が多かったということで大学に入ってから撮影した2600系。この頃はさすがに小田急は詳しくないし、相鉄ですら形式なんて意識するほど余裕もなかった。小田急はとりあえずこの顔の車に乗ったのは間違いないでしょう。
それと8月に日大の六会キャンパスへ行く小田急の車内で聞いたのがこの曲。
林原めぐみ Touch Yourself
https://www.youtube.com/watch?v=OUyI80il-y0
なんだか今の自分が置かれている境遇と共感するような歌詞、特に2番のサビに入る前の「自分で選んでココに来た日のこと 信じられたなら 笑える日来るから」もうこのフレーズを聞いて思わずジーンときちゃった。確かに受験は辛い道だけど自分の選んだこと。後戻りもできないしもう進むしか無いと思ったな。
夏の落とし穴 ~オーバーペースに陥って~
2021年5月28日 流星の彼方(回想録)
高3の夏は学校からは夏休みの宿題は7月頭の期末試験が終わったらすぐに発表でちょうど夏期講習まで時間があるからということで終業式の前にはもう余裕で終わらせるという、歴代最速なんじゃないの?そして、修了式の前2日は球技大会だったけどこれは最初から不登校宣言してから休み。この不登校はもっと規模が大きくなってちょっと問題になるけどそれは後でいいか。
夏休みが開ければとにかく勉強。予備校の自習室はかなり気合い入れている人たちばかりだからやっぱり意識も変わってくる。授業も夏期講習は現役・浪人関係なしというのも大きかったな。そして学校にいる間はいくら授業聞いてないで内職していてもやっぱりぜんぜん違う。当然勉強時間も延びてくるはずが・・・。
そんなのは最初だけで、だんだん気持ちが不安定というか集中力を高めようにもなかなか集中できないに始まって、いざ集中しようとするにも胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりしていって。結局ペースを落とさないといけなくなったし、朝晩の電車ではパニック発作も起こしかけたこともある。
さらにこの時から部屋の明かりを消して寝ようとするとすごい胸が苦しい感じがして過呼吸を起こしたりするように。これも1回起こせば2時間くらいは眠れないし眠れてもすっきりと目が覚めることは皆無なほど。この寝る時の過呼吸もパニック発作の一種だったみたいだけど、当時は薬もそんな知識もなかったからとにかく落ち着くまで耐えるしか無くてだから寝るのが怖くなってきたこともあるほど。
結局、8月の中盤以降は思うように勉強時間も確保できない状態が続きさらにこれが後にさらに過酷な状況に追い込まれることに。
そんなことがあった天王山と呼ばれる夏は実は受験生あるあるでここでがんばりすぎて秋以降に調子を落とす人が決して少なくないらしいのですが流星の場合はただでさせ精神面に不安抱えているのだから少しは考えてやれよというのが正解みたい。ただその頃の自分は学校が進学校でもない元の偏差値も低いから他の人が一日5時間やるなら自分は7時間やらないと追いつけないとそんな感じだったから結局、何だかんだで自分にムチを打ち続けていたのも状況の悪化に拍車をかけたのかもしれない。
今日の写真はおそらくこの頃の通塾に使っていたであろう通勤快特5Bで1143編成。この時はまだ増結が品川寄りで今と逆なんですね。
夏休みが開ければとにかく勉強。予備校の自習室はかなり気合い入れている人たちばかりだからやっぱり意識も変わってくる。授業も夏期講習は現役・浪人関係なしというのも大きかったな。そして学校にいる間はいくら授業聞いてないで内職していてもやっぱりぜんぜん違う。当然勉強時間も延びてくるはずが・・・。
そんなのは最初だけで、だんだん気持ちが不安定というか集中力を高めようにもなかなか集中できないに始まって、いざ集中しようとするにも胸に違和感というか不安感や息苦しさを感じたりしていって。結局ペースを落とさないといけなくなったし、朝晩の電車ではパニック発作も起こしかけたこともある。
さらにこの時から部屋の明かりを消して寝ようとするとすごい胸が苦しい感じがして過呼吸を起こしたりするように。これも1回起こせば2時間くらいは眠れないし眠れてもすっきりと目が覚めることは皆無なほど。この寝る時の過呼吸もパニック発作の一種だったみたいだけど、当時は薬もそんな知識もなかったからとにかく落ち着くまで耐えるしか無くてだから寝るのが怖くなってきたこともあるほど。
結局、8月の中盤以降は思うように勉強時間も確保できない状態が続きさらにこれが後にさらに過酷な状況に追い込まれることに。
そんなことがあった天王山と呼ばれる夏は実は受験生あるあるでここでがんばりすぎて秋以降に調子を落とす人が決して少なくないらしいのですが流星の場合はただでさせ精神面に不安抱えているのだから少しは考えてやれよというのが正解みたい。ただその頃の自分は学校が進学校でもない元の偏差値も低いから他の人が一日5時間やるなら自分は7時間やらないと追いつけないとそんな感じだったから結局、何だかんだで自分にムチを打ち続けていたのも状況の悪化に拍車をかけたのかもしれない。
今日の写真はおそらくこの頃の通塾に使っていたであろう通勤快特5Bで1143編成。この時はまだ増結が品川寄りで今と逆なんですね。
大学受験に全てを賭けていたわけ
2021年5月27日 流星の彼方(回想録)
今回は全てを賭けてでも大学受験を続けた理由。後になって考えればとてもじゃないが大学受験を続けられる精神状態でもないというかストレスないし負荷に耐えられないと2年の時にもう悟っていたけどそれでも大学受験を諦めなかった理由。今回はそんなお話です。
高2の後半以降、本当に色々と将来に向けてぼんやり考えていたけどその頃に最初に考えていたのは教師になること。自分の経験があればきっと生徒たちのために役に立てるそう思っていたな。この夢は大学に入って塾講師のバイトを一時期やって小さい形だけど叶えることができた。大学でも2年制は教職課程の授業も受けていたけど、教員免許は出身の大学の学部に依存するから中学社会科と高校公民の組み合わせで一番免許を持っている人が多くて一番競争が激しいというのと、バイトでの適正とかトラウマの影響で無理だと思って3年の時に諦めた。でも後悔はしていない。とりあえず小さい形だけどやってみたりした上で決めたことだから。
そしてもう一つは、学生生活をやり直したかったから。高3年になって学校を捨ててからはもうこの3年間は将来に渡って暗い影にしかならないし、大学に入るための役割しかないと考えていた。だからこそ大学の4年間は全てをやり直して学生生活を終わりにしたかった。この頃は大学生にすごく憧れていたな。今の狭い教室に閉じ込められて、いつも同じ顔ぶれと一緒で制服に始まって規則で色々と縛られて(ささやかな反抗としてネクタイと校章は学校の外ではよく外していたな)、大学にはそんなこと全くなくて好きな格好で10人いれば10通りの考え方は当たり前。規則も当たり前のことくらいしか無い自由がある。それに親も半ば捨てセリフのように大学に行かないなら働けと言っていたけどその当時なんて高卒でやりたい仕事なんて何も考えていなかったし。一言で言えば閉塞感。そんな感じを打破して大学受験を続けて現役合格を勝ち取ることが唯一未来への突破口だと思っていた。だからこそ、全てを賭けていた。だからとてもじゃないが失敗した時のシナリオも考えたけどあまりに絶望的な答えしか見つからなくて途中で考えるのやめてしまったな。
全てを賭けてでもやり直したいし夢を追い求めたい。その気持ちがあったからこそ次の4年間を手にすることができた。そういう意味でも高校の3年間は一応成功で幕を閉じることができたのは自分に対してのせめてもの慰め。
今日の一枚はこれは鉄な理由で現役合格が欲しかった理由で碓氷峠のEF63。なにしろ受験が終わった97年の10月には今の北陸新幹線が長野まで開通して廃止になることが決まっていたから現役合格しなければ最後の夏を撮影することも乗ることもできなかった。友だちからもらった碓氷峠の写真は机に目標の一つとして挟んでいたな。
高2の後半以降、本当に色々と将来に向けてぼんやり考えていたけどその頃に最初に考えていたのは教師になること。自分の経験があればきっと生徒たちのために役に立てるそう思っていたな。この夢は大学に入って塾講師のバイトを一時期やって小さい形だけど叶えることができた。大学でも2年制は教職課程の授業も受けていたけど、教員免許は出身の大学の学部に依存するから中学社会科と高校公民の組み合わせで一番免許を持っている人が多くて一番競争が激しいというのと、バイトでの適正とかトラウマの影響で無理だと思って3年の時に諦めた。でも後悔はしていない。とりあえず小さい形だけどやってみたりした上で決めたことだから。
そしてもう一つは、学生生活をやり直したかったから。高3年になって学校を捨ててからはもうこの3年間は将来に渡って暗い影にしかならないし、大学に入るための役割しかないと考えていた。だからこそ大学の4年間は全てをやり直して学生生活を終わりにしたかった。この頃は大学生にすごく憧れていたな。今の狭い教室に閉じ込められて、いつも同じ顔ぶれと一緒で制服に始まって規則で色々と縛られて(ささやかな反抗としてネクタイと校章は学校の外ではよく外していたな)、大学にはそんなこと全くなくて好きな格好で10人いれば10通りの考え方は当たり前。規則も当たり前のことくらいしか無い自由がある。それに親も半ば捨てセリフのように大学に行かないなら働けと言っていたけどその当時なんて高卒でやりたい仕事なんて何も考えていなかったし。一言で言えば閉塞感。そんな感じを打破して大学受験を続けて現役合格を勝ち取ることが唯一未来への突破口だと思っていた。だからこそ、全てを賭けていた。だからとてもじゃないが失敗した時のシナリオも考えたけどあまりに絶望的な答えしか見つからなくて途中で考えるのやめてしまったな。
全てを賭けてでもやり直したいし夢を追い求めたい。その気持ちがあったからこそ次の4年間を手にすることができた。そういう意味でも高校の3年間は一応成功で幕を閉じることができたのは自分に対してのせめてもの慰め。
今日の一枚はこれは鉄な理由で現役合格が欲しかった理由で碓氷峠のEF63。なにしろ受験が終わった97年の10月には今の北陸新幹線が長野まで開通して廃止になることが決まっていたから現役合格しなければ最後の夏を撮影することも乗ることもできなかった。友だちからもらった碓氷峠の写真は机に目標の一つとして挟んでいたな。
最も泣いた一年 ~厳しい環境の裏で~
2021年5月26日 流星の彼方(回想録)受験シーズンを振り返った時に今でも思うことは、赤ちゃんの頃含めて小さかった頃を除けば一番泣いたの間違いなく受験含めた高3の時だろうな。
何しろ、自分を取り巻く環境があまりにも辛かった。受験シーズンは待ってくれないし、学校の環境も厳しい部分があったし家も身の安全は確保される場所だけど親からは浪人禁止+名前の通った大学に入るという条件を突き付けられていたし、黙って予備校とかのお金だけ出してあとは自分の好きなようにやらせてというわけにもいかないし。もちろん自分にも心の傷とかもういじめの後遺症が出ていたし。
常にオーバーペースで勉強しているから学校とか含めてストレスも相当かかっていたというか常に無理の連続だったと思う。今振り返れば危ない領域に入っていたと思う。
そんな中で気持ちを楽にさせることの一つが泣くこと。寝ようとする時、部屋の明かりを消してからどれだけ泣いたかな。
もう泣きたい時に聞いていた曲といえば、酒井法子 碧いうさぎ
https://www.youtube.com/watch?v=iaYwbOKy0_Q
松澤由美 YOU GET TO BURNING
https://www.youtube.com/watch?v=LwQ0Swom6zU
とくにこの曲の2番で涙が止まらなくなったな。
一通り涙が出た後に眠りに付く前に明日のために聞いたのは
岡本真夜TOMORROW
https://www.youtube.com/watch?v=IxN5s8YipbI
-涙の数だけ強くなれるよ-
本当にこの時に流した涙の数だけ強くなれたのかな?。今の自分もここまでがんばれたかもわからないから人生で一番強さを発揮したのはたぶんこの1年だと思う。今は、この頃に限界を超えた強さをや力を発揮してしまったから怖さや限界を知ってしまったからもう再現できないだろうな。
何しろ、自分を取り巻く環境があまりにも辛かった。受験シーズンは待ってくれないし、学校の環境も厳しい部分があったし家も身の安全は確保される場所だけど親からは浪人禁止+名前の通った大学に入るという条件を突き付けられていたし、黙って予備校とかのお金だけ出してあとは自分の好きなようにやらせてというわけにもいかないし。もちろん自分にも心の傷とかもういじめの後遺症が出ていたし。
常にオーバーペースで勉強しているから学校とか含めてストレスも相当かかっていたというか常に無理の連続だったと思う。今振り返れば危ない領域に入っていたと思う。
そんな中で気持ちを楽にさせることの一つが泣くこと。寝ようとする時、部屋の明かりを消してからどれだけ泣いたかな。
もう泣きたい時に聞いていた曲といえば、酒井法子 碧いうさぎ
https://www.youtube.com/watch?v=iaYwbOKy0_Q
松澤由美 YOU GET TO BURNING
https://www.youtube.com/watch?v=LwQ0Swom6zU
とくにこの曲の2番で涙が止まらなくなったな。
一通り涙が出た後に眠りに付く前に明日のために聞いたのは
岡本真夜TOMORROW
https://www.youtube.com/watch?v=IxN5s8YipbI
-涙の数だけ強くなれるよ-
本当にこの時に流した涙の数だけ強くなれたのかな?。今の自分もここまでがんばれたかもわからないから人生で一番強さを発揮したのはたぶんこの1年だと思う。今は、この頃に限界を超えた強さをや力を発揮してしまったから怖さや限界を知ってしまったからもう再現できないだろうな。
空白の6ヶ月 ~記憶の分断~
2021年5月25日 流星の彼方(回想録)
一時期というか今も、高校1年が終わった時~2年の10月(セカンドバースデー)の間というのが記憶が抜け落ちているというか、完全な空白域になっていて悩んでいたことがあったから今回はそんな話。
もう高2の終わりくらいから薄々思っていたのだけど10月以降のことの影響が大きかったのかいじめが終わった3月~10月の部分があまり思い出せないなと思っていた。それがさらに気になってきたのは大学に入ってから。なにしろ高校3年間のうちの半年だから1/6もの期間だったから。
この頃の自分の記憶の形はというと意識的には高1のいじめの記憶も積極的には思い出さないようにしていたから
生まれた時~中学校・高1全体・(空白の高2の10月まで)・高2の10月以降~
という形に分断されていたな。空白の期間は日記も無いし写真とか見れば確かにどこに出かけたとかはわかるけどどんなこと考えていたとか、好きなことや物の記憶があまりないんだよね。だから、中学とかのことも思い出す時も分断された箇所があるからなにか違和感があるような感じがして。
わかることと言えばNゲージは車籍を昔から残しているからGMの73系キット組んで、KATOの165系の低屋根セットを買ったとかは記録が残っているのとあとは写真くらい。思い出せることもあまりないんだよね。大学生のうちにも少しずつ思い出すことはあったし一つに統合しようとしても記憶は分断されたまま
結局、今も完全に思い出すことはできないままである。といってももうこれだけ歳を取ったから他にも忘れていることとか日記を見ないと思い出せないこともいっぱいあるくらいだから気にならないようになっただけのこと。さらに分断されている構造も2003~2005年にかけてカウンセリングを受けていた時に解消されてようやく一つの記憶の流れになった。
そんな今日の1枚は1995年8月に金沢八景で2000形を撮影したもの。真夏の昼下がりに思いったらということで八景にいって撮影してきた時のワンショット。大学時代にこの写真を見た時は安心したな。間違いなく自分らしさを失っていなかった。ボロボロで追い詰められた時に感情が麻痺してきたのも自分らしさの大事な部分を守ろうとした証だったと思えてきたから。
もう高2の終わりくらいから薄々思っていたのだけど10月以降のことの影響が大きかったのかいじめが終わった3月~10月の部分があまり思い出せないなと思っていた。それがさらに気になってきたのは大学に入ってから。なにしろ高校3年間のうちの半年だから1/6もの期間だったから。
この頃の自分の記憶の形はというと意識的には高1のいじめの記憶も積極的には思い出さないようにしていたから
生まれた時~中学校・高1全体・(空白の高2の10月まで)・高2の10月以降~
という形に分断されていたな。空白の期間は日記も無いし写真とか見れば確かにどこに出かけたとかはわかるけどどんなこと考えていたとか、好きなことや物の記憶があまりないんだよね。だから、中学とかのことも思い出す時も分断された箇所があるからなにか違和感があるような感じがして。
わかることと言えばNゲージは車籍を昔から残しているからGMの73系キット組んで、KATOの165系の低屋根セットを買ったとかは記録が残っているのとあとは写真くらい。思い出せることもあまりないんだよね。大学生のうちにも少しずつ思い出すことはあったし一つに統合しようとしても記憶は分断されたまま
結局、今も完全に思い出すことはできないままである。といってももうこれだけ歳を取ったから他にも忘れていることとか日記を見ないと思い出せないこともいっぱいあるくらいだから気にならないようになっただけのこと。さらに分断されている構造も2003~2005年にかけてカウンセリングを受けていた時に解消されてようやく一つの記憶の流れになった。
そんな今日の1枚は1995年8月に金沢八景で2000形を撮影したもの。真夏の昼下がりに思いったらということで八景にいって撮影してきた時のワンショット。大学時代にこの写真を見た時は安心したな。間違いなく自分らしさを失っていなかった。ボロボロで追い詰められた時に感情が麻痺してきたのも自分らしさの大事な部分を守ろうとした証だったと思えてきたから。
日記を書き続ける訳 ~自分を見失った教訓から~
2021年5月24日 流星の彼方(回想録)流星が日記をつけるようになってからもう四半世紀以上が経ったけど、今回は日記を書き続けている訳をの話です。
大本は高校2年の11月、初めてのセカンドバースデーから1ヶ月くらい経った後ですセカンドバースデーのことは
https://25444.diarynote.jp/202105230108297931/
を参照してください。
それで、やっぱりその当時の自分が思ったことはいじめが原因だったにしても自分を見失っていたわけだし、もうこんなこと二度と起きてほしくないしもしそうなった時に自分を取り戻すヒントになると思って書き始めたのが最初。本当にとりとめのないこととか日常的なこともあったけど、なにより自分も感じたことや考えたことを書くようにしていた。それが最初の目的。
高3の受験シーズンになるとさらに環境も悪くなるし辛い気持ちにもなっていく。いつも寝る前に書いていたから調子の悪いとか、不安定な日は辛い気分でも自分を励ますようなことを書いて自分を応援していた。
大学に入ってからは出来事とかでたまに気持ち的な事書いたりは変わらないけど今度はその日の精神的なコンディションを書く部分が多かったな。
そして、就職して2年目の夏からここに書くようになったけどその頃は何かトピックとかネタで使えることはここに、それ以外は自分だけの日記に書いていたり中にはブログの記事をそのまま自分用の日記に貼り付けていたり。
自分だけの日記をやめてここだけにして今に至ると。今は一時期更新が遅れまくっていたから気持ちの面とかなかったのは反省するべきことだし結構記述漏れとかあったかも。ただ、今はネタ半分に要所要所は書いてあるから何か思い出すための鍵という役目もあります。
ちなみに、今は1ヶ月以内の遅れにとどめています。さすがに何か事件とかにたいして書きたい時に順番飛ばしが広範囲になるのも避けたい自分も気持ちもまた書きたいから。ただプライバシーとかの兼ね合いから最短でも2週間遅れを目指しているけど、場合によってはそれももっと短縮させてもいいのかも?
大本は高校2年の11月、初めてのセカンドバースデーから1ヶ月くらい経った後ですセカンドバースデーのことは
https://25444.diarynote.jp/202105230108297931/
を参照してください。
それで、やっぱりその当時の自分が思ったことはいじめが原因だったにしても自分を見失っていたわけだし、もうこんなこと二度と起きてほしくないしもしそうなった時に自分を取り戻すヒントになると思って書き始めたのが最初。本当にとりとめのないこととか日常的なこともあったけど、なにより自分も感じたことや考えたことを書くようにしていた。それが最初の目的。
高3の受験シーズンになるとさらに環境も悪くなるし辛い気持ちにもなっていく。いつも寝る前に書いていたから調子の悪いとか、不安定な日は辛い気分でも自分を励ますようなことを書いて自分を応援していた。
大学に入ってからは出来事とかでたまに気持ち的な事書いたりは変わらないけど今度はその日の精神的なコンディションを書く部分が多かったな。
そして、就職して2年目の夏からここに書くようになったけどその頃は何かトピックとかネタで使えることはここに、それ以外は自分だけの日記に書いていたり中にはブログの記事をそのまま自分用の日記に貼り付けていたり。
自分だけの日記をやめてここだけにして今に至ると。今は一時期更新が遅れまくっていたから気持ちの面とかなかったのは反省するべきことだし結構記述漏れとかあったかも。ただ、今はネタ半分に要所要所は書いてあるから何か思い出すための鍵という役目もあります。
ちなみに、今は1ヶ月以内の遅れにとどめています。さすがに何か事件とかにたいして書きたい時に順番飛ばしが広範囲になるのも避けたい自分も気持ちもまた書きたいから。ただプライバシーとかの兼ね合いから最短でも2週間遅れを目指しているけど、場合によってはそれももっと短縮させてもいいのかも?